前回のまとめ
『自分の自然な欲求に従って、なるべく自分の好きなようにいろいろできる教育環境を模索していくと、
子どもたちの、十分な神経発達を促し、それぞれがもつ能力をうまく発達させることにつながり、
それは人類全体を改善・飛躍させることにつながると私は思っている。』
これを社会的にどう実践していくか、について、今回書いていく。
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この「欲求に従って自由にいろいろできる教育環境の模索」は、個々人で行える範囲に限界があるのが現状で、
(現に我が家でも、「どれだけ運動神経が良くても、幼稚園に入ったら安全面を考えて制止されます」と、保健所で「暗に発達させないことを求める指導」をされるのが現実である。また、苦手な「全員でやるダンス」などについては、「幼稚園で普通に過ごせるように」それをできるようになりましょう、という指導がなされる。)
こうした、頭打ち現象が起きないように、
社会全体で、「社会的な枠組みとして」個性に対応する保育・教育を進めていくことは、やはり不可欠になってくる。
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少し前に、国連から、日本の障害児教育に改善を求める通達があり、このブログでも話題にした。
その時に書いた内容が、今回の記事に共通する内容である。
国連の要求は、「障害児」のくくりで隔離教育をせず一般と同様に学べるようにしましょう、といった内容で、
これは、国連が現在日本で行われている「特別支援教育」を悪い方向に誤解しているから、そういう要求をしてくるのだ、という意見もあって、
見る角度によってはそれも確かにそうなのだが
(日本の特別支援教育は、今現在の「一般教育システム」では学びづらい性質を持つ人たちを、より個別対応に近い環境で、個人のペースで学びを進められる場所になっているので、「現行システム下」では、この特別支援という「隔離」が、安全な学び場として、ある程度有効に機能しているから。
「ある程度」と書いたのは、
差別や偏見などの、「国連が考える「隔離」に近い意識」を持つ人々も一定数、社会に存在するので、
「差別もされているし、一方、守られた環境で安心して学べる場でもある」のが現実だから。)
このように「現行システム下の日本」では、ある程度効力を発揮しているこの隔離教育だけれども、
本来(≒未来)は、こうした「特別支援」に区分けされている人たちも「違う特徴を持つ同等の仲間」として互いに補い合い、協力し合う関係になるので、
いま「一般」とされる人々と同等の立場で学びや生活をできるように、社会を改善することは、やはり必要な変化だと私は考えている。
(「資本主義的な生産性」を基準にした価値判断だと、「同等になるなんて無理な話だ」と思うかもしれないが、
この「資本主義的価値観」自体が、地球全体とは相容れない「人間独自の考え方」で、人間の増殖と共にその弊害が大きくなってくるので、
人類が、繁栄と存続の両方を考えるなら、必然的にこの価値観も変化させていかねばならず、
その結果新しく常識となってくる価値観は、生産性だけに注視しない・もっと多様な価値が平等に認識される社会になるので、
今まで水面下に沈んでいた様々な価値観が、同じラインで輝くようになり、
その社会では、今まで無価値とされてきた特徴を持つ人々とも、互いの得意分野で対等に協力し合うことが、必然かつ当たり前になる。)
そうした未来を考えると、
いまの時点で、個性対応できる保育・教育を社会的に模索していくことは、
・国連の要求に対処するという目前の問題解決でもあるし、
・「可能性ある明るい未来」に向けた、建設的な取り組みでもあるし、
・人類が、繁栄を維持したまま存続したいと考える場合は、この取り組みが、避けることができない不可欠の課題にもなる。
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様々な個性がある状態で、どう学問や日常生活を行えば良いのかは、
「窓ぎわのトットちゃん」に出てくる「トモエ学園」のように、
過去、現実に行われた良いモデルケースが、参考の一つになると思う。
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未来にむけて個性対応できる保育・教育を模索していく一方で、
今現在、すでに現行システム下でも、個性を花開かせ・活躍できる立場にある人々が、どうするか、についても書いていく。
何度か書いてきたが、
現行システムは、本来あるべき状態に対してかなり片寄った枠組みで「良い悪い」・「高等下等」などが色分けされているので、
本来は同じラインの、それぞれ違う能力を持つ者として協力し合うべき人々が、
数多く、システム上「社会的弱者」にならざるを得ない状況になっている。
(これについて、「本人の努力が足りない」等の、「社会に適応しない」個人の問題として話されるのが、現行システム下でよく起きる状況だと思うが、
価値観やシステムの中に自分の能力で貢献できる領域が無く、得意とはいえない方面に努力することを要求される社会において、
それがうまくできず、その社会システムでの弱者になることは、個人の範囲を超えた問題が根底にあるので、
その現象を、個人の努力不足を理由にして糾弾することは、基準がいろいろズレているように私には思える。
そもそもスタートから、自分の持ち得た特徴が「現行社会システム」の片寄りの、有利なほうに合致するかどうかで、生きるのに有利な人・不利な人がいて、
さらにそのシステムそのものが、人類と地球全体にとって最善のものでも無い。)
こうした片寄った状況で、自分が自己表現でき、かつ現行システム下での「成功」ができる事は、
やむを得ない理由でそうならない立場の人々から、素直な羨望や賞賛をもらえる一方で、やはり恨み・妬みの矛先になることもある。
道徳を説いているのではなく状況的な事実だ。
表立って活躍できるのは、現在の社会システム的に自分の能力が有利な範囲にあったこと、それから
数ある役割の中で、自分の役割が、
大勢に見てもらうとか、何らかの影響を広範囲に与えるなどの、どちらかというと表立った方法で役立つ担当だからなのだ、と理解して、
その役割を果たしつつも、
自分を表現して満足する、で終わらずに
「現行システムで社会的に不利な立場にならざるを得ない人々」が、本来の平等に協力し合う状態に浮上するために、いま何ができるか、自分なりにできる手助けを考えて、意識的に行うことで、
個人的に自分自身が受ける害を回避しやすくなるし、
人間社会の「文明の進化に伴う退化」を食い止め、「本当の進化と未来」につなげるための、歯車にもなれる。