神経発達について

二つ前の記事に、

『本能的行動を無視した常識の強制、による主な弊害は、神経発達の阻害ではないかと考えている』と書いたのだが、それについて、もう少し全体像を書こうと思う。

 

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以前から私は、「人間にはタイプ別がある」と言っていて、十字でざっくり4タイプに分けて、それぞれを仮にA・B・C・Dと呼んでいた。

 

 

今は、

これらのタイプは、ハッキリ十字に区分けできるというよりも、

「なんとなく十字に分類できる」けれど、その中でもっとグラデーションまたはマーブル模様のように、得意とする分野が、それぞれ微妙に違い、違う能力に秀でていて、

それは、生まれ持った資質プラス、生育環境で行われた神経発達の状態によって、作られているのだろう、と考えている。

 

 

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例えば、言語によるコミュニケーション能力にフォーカスすると、

 

幼児の成長段階として、

まず最初に「見たものを真似して表現する」段階があるのだが

以前「A」と呼んだタイプの言語コミュニケーションもこの様式になっている。

私の身近で言うと、夫や義父がそのタイプで、身近な相手の話し方・リアクション・話す内容などを真似て(真似るというよりもコピーする、のほうが、表現として近いように感じる)、コピーして自分も話す、という手法をとる。意思でやっているというより自然にそうなってしまう・そうするしかないといった印象をうける、なぜなら相手が敵意で話した表現をもそのままコピーして返すので敵意で接してきた相手との関係修復を自力で行えず何十年もそのまま過ごすから)

つまりこのタイプは何らかの要因で、言語コミュニケーションに関して、その発達時期に、自分で試行錯誤する機会が大幅に少なくなり、神経発達がこの段階で止まったのではないかと私は思っているのである。

 

 

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この分野に関して言えば、

「コピー」という表現がぴったりのタイプもいるし、それとは微妙に違う「合わせる」になるタイプもあるし、その中には「合わせる」に徹するタイプもいれば「合わせることもあるし場合によっては合わせないタイプ」などもあり、こうした違いを数々見ているうちに、神経発達状況の違いが表面化しているのだと感じるようになった。

 

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こうした神経発達、

私に関して言えば、ブロック遊びやゲーム機器・運動遊びなどはほぼ行っていなかったので、いま息子とそれらの遊びをやろうとするとき、私の遊びの発想がとても稚拙である。

考えようとしても、たいしたことを思いつけないので、感覚的には、「その分野に関して豊かに発想するための情報回路がつながっていない感覚」、神経発達が未熟な感覚である。

こうした自分の感覚からも、なにかを出来る・出来ないは、先天的な要因にプラスして、神経の発達時期にその分野を経験し試行錯誤したかどうかがかなり影響しているように思った。

 

こうして書いてみると、

たくさん経験し試行錯誤の機会に恵まれた分野の神経が発達しやすいという、ごく当たり前の話でもあるのだが、

「どのように感じるか」とか「どう話すか」などの、一見神経発達とは関係ないような印象の、性格的なことも、こうした神経発達の長短が影響し、表面的な人格形成につながるように私は感じている。

 

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先天的に、「この方向には、そんなに発達しない」というのがある程度あって

(例えば、骨格や筋肉がそんなに運動にはむいていない、とか)

そこにプラスして、生育環境での、経験や自発的な試行錯誤などで神経の発達状況が変わり、表面的な特徴を形成するのだろうと思っている。

 

 

 

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前述の義父についてだが、

私が出会った当初は、義母(つまり義父の妻)を完全コピーした状態で私と会話していた。

義母は、ある時期の仲違いをきっかけに、それ以来、敵意を持って義父とコミュニケーションしているので、それをコピーした義父は義母からすると「常にムカつく会話をしてくる(もともとは義母が義父をムカつかせようと思って放った攻撃がそのまま返っている状態)をしてくる人」になるので二人は当然、上手くいっておらず、

また、義母の攻撃的な会話をコピーした状態で私に話しかける義父を私もやはり、好きになれず最初は拒絶した。

その後義父は、その反省を活かし、

良い関係を維持している「私と夫のコミュニケーション」を学びコピーする努力を始めた。方法は、私たちが義実家に滞在している間の、会話の盗聴である。

努力は実を結びつつあり、義父と私たち夫婦の関係性は改善してきた。

この成功をもとに義父は、今度は

私と夫のコミュニケーションをコピーしたものを、義母にも使用する試みを始めている。

義父は当然、私たち夫婦よりも義母と過ごす時間のほうが長いので、コピータイプの義父にとって、理想モデルが居ない状態で目の前の義母に理想を行うことはなかなか難しいから、成果を得るには時間がかかるかもしれないが、以前のまま義母をコピーし続けるよりは関係改善の希望がみえてくるだろう、と私は思っている。

学びの方法に盗聴を用いたというのが、

義父は意外と、自分自身の特徴をよく分かっているのだなと驚いたし、常識に逆らってでもそれをやろうと思ったあたりに、今回の自己改善への本気度を感じた。

プライバシーの面からは否定される盗聴だが、義父のようなコピータイプの人にとって、自分を改善しようと思ったら、良いと思える見本をひたすら見て学ぶしかないので、同居するか・こっそり見たり聞いたりして学ぶかくらいしか、方法が無い。しかも同居というのは、対面のコミュニケーションを伴うので、自分の性質について相手の理解が無い状況だと、結局また、義母と陥ったような敵対関係になってしまい、うまく学べない可能性が、多分にある。

私は初期に「話し方教室」を勧めたのだが、そういう場で学ぶ「型どおりの会話」を実践で応用して使うのはコピータイプの人には難しいかもしれない、と、勧めた私自身も思ったがやはり義父もその道を選ばなかった。こうした現状を思うと、盗聴というのが、学びの方法としてクローズアップされるのは、仕方がない事のように思う。コピータイプの特徴が社会的に理解されれば改善方法の道も、もっと広がるかもしれないが。

実は、義父だけではなく義母もまた、コピータイプに近い性質を持っているのだが、義母も私たちとのコミュニケーションを重ねるにつれ自己改善を意識し出した。けれど、盗聴という手段には出ていない。

そして盗聴をしていない義母と、盗聴をしている義父では、義父のほうが進みが格段に速いのが現実だ。(見本の会話パターンを見る頻度の違いに加えて、義父の場合は自分の特徴と改善方法をあらかじめ自分で理解していた、という差もある。)

物事には、見る角度により良い面悪い面が両方あるというのがここにも言える、と私は思っている。

 

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総合して、

 

冒頭で書いた、「神経発達の阻害が起きやすい」現状が、今現在の人間社会なのだけれど、

自分の自然な欲求に従って、なるべく自分の好きなようにいろいろできる教育環境を模索していくと、

子どもたちの、十分な神経発達を促し、それぞれがもつ能力をうまく発達させることにつながり、

それは人類全体を改善・飛躍させることにつながると私は思っている。

 

 

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やや話は変わるが、

幼児期の記憶はだいたい3歳頃からの記憶が、大人になっても残っているけれど、

それ以前の記憶も、脳のどこかの領域に保存されていて、

主に子育てに携わる時、その記憶領域にアクセスして、やり方を引き出しているのではないかな、と私は感じている。

自分では全く、親にされたことを覚えていない事でも、自動的に自分も子育てで同じことをやっている、というシチュエーションをたくさん経験したので、

生物が種を存続させるために、脳がそういうシステムになっているのかもしれないなと私は思っている。