保健所の二歳児健診

「生活習慣をきちんとさせることを頑張りすぎた結果、子どもを怒りすぎる」ことにならないよう、保健所側からそれについてのアドバイスをしてほしい。のお願いは、現場にはまだ行き届いていませんでした。

精神的な影響力をもつ「保健所」(役所)の側から、「怒りすぎたら本末転倒だよ、そうなるときは手を抜こう」の助言をプラスすることが、状況改善に大事だと思うので、進めてくれることを期待したいです。

 

 

(念のため、どうすれば良いのか分からない場合を想定して私の考えを書くと、

「虐待が増えていることを踏まえて保健所の指導要領を見直す」、その指示を出すべき機関が、実際に指導内容を考えている機関に指示を出す、のが初動かなと思います。全く見当違いでしたら気にしないでください。)

 

 

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私と息子については、

提出するチェックシートの余白に私の考えをいろいろ書いて持参したので、それが効果を発揮して、「片寄った見方の、過剰な指導」をされることはまぬがれました。

ハッキリした意見を持っている私に対してはこのように合わせてくれますが、あくまでも私に合わせているだけの一時的なことで、他の親子への指導は変化しません。

これを変えるのは上からの通達が必要なので、やはり協力がほしいです。

 

 

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保健所の内部構造は、

「決められている仕事をその通りにやる」のが全体のベースで、それを「どのようにやるか」が、場をリードする人によって変わる印象です。

子どもを叱り気味にやるのか、子どもに寄り添いながらやるのか、有無を言わさない指導をするのか、家庭の意見を聞き入れながらやるのか、などが、その場をリードする人の性質に他の職員が合わせ、空気が作られます。

 

ただし指導そのものは、職員と親の「1対1の対面」で行われる場面が多いので、

(上にも書きましたが)しっかり考えを持っている家庭には、「その場では」家庭に合わせて会話をしてくれる傾向があります。

よって、

「このチェックシートを全てきちんとやろうとしたら子どもを怒りすぎてしまう。そちらの影響のほうが心配だ」の姿勢を、文字や言葉で職員に伝えられれば、

対面した職員の一時的な会話だけは改善され、「自分の家庭だけは」守ることができます。

 

 

チェックシートの余白に書いた意見が、その後、保健所全体の議題に上がり話し合われている様子は無いので、これは本当に一時的な、自分たち親子を守る手段にしか、なりません。

しかし、同じように余白に意見を書いてくださる人がもっと増えたら、「最近こういうの多いね」と話題になる可能性が高まります。そうした状況で上からも同様の通達があれば、改善にとても効果的です。官民両方の、皆さんのご協力が欲しいです。

(どの地域にも共通することなので、どの県・どの市でも協力してもらえるとうれしいです。)

 

 

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「指導内容から家庭を守る」なんて、極端な言い方だ、と思うかもしれませんが、これは真面目に言っています。

保健所内でも特に、虫歯指導に就く職員の間に漂う空気は、「子どもの本能なんて1ミリも容認しない」くらいの、脱砂糖・脱母乳・脱時間外間食の空気が漂い、虫歯予防が「他のすべての育児に勝る重大ごと」になっている一種独特な空間です。

今日、対面では私に合わせて話してくれた職員も、日常では保健所の空気に合わせているわけなので「授乳があります」と虫歯予防の職員に知らせる時は声音を調整するのに苦労していましたし、(ついさっきまで私に合わせていたので私の居る場で普段の口調にもどすのが難しかったのでしょう)、しかし聞く側の職員はその事情を知らないので、授乳と聞いた時の反応が、ものすごい悪事を耳にしたかのような険悪な反応で、「ああ、ここは普段からこういう意識で指導に当たっているんだな」と実情が透けてきます。

冷静に状況を見れるタイプでない場合は、この空気に押されて、「子どもの意志や自由を尊重したい」と考える自分が「悪い母親」のように感じて苦しくなります。20年前の私がそうで、とてもツラい思いをしていました。

 

甘い物を敵視する感覚も、最大限私に合わせた状態でも「毎日食べていないだけでも偉い」という否定的な発言なので、「普段は完全敵視」の姿勢が透けています。

(甘い物は決して悪の存在では無いのに、「虫歯予防」の観点に片寄りすぎた指導になっていて、しかし親側にはそれが、子育て指導のスタンダードとして伝わり、日常的に子どもをイライラ叱る材料になります。)

 

さらに、指導された内容は結局、親が親の努力でなんとかするわけではなく、子どもを怒ることで解決する家庭も多く、

そして子どもは本能的に、消化吸収が効率的なエネルギー源を欲しますし、

指導とは逆に、巷には溢れんばかりにお菓子が存在するので、おのずと、親子間の摩擦は増えます。

これらのイライラが、ホルモン周期によるメンタル悪化などと重なって、虐待まがいの大爆発を起こすことになるので、この流れから、家庭を守りたいのです。

 

最終的には「虫歯になっても治療できる」のだから、

ただでさえ、自我の育つ大事な時期にもかかわらず大人の理解を得にくいという、親子関係が不安定な時期なのに、追い打ちをかけるように子どもの本能を悪者にして、親が子にキレるための許可証を発行するようなことをしないで、とお願いしたいのです。

 

「常識化しているものを見直すのが不得意なタイプ」が集まっている事が、悪い方向に深刻に作用しだしている場所、が今の保健所だと私は感じています。

 

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約50年前に、(今とほとんど変わらない内容の)保健指導に気持ちを追い詰められた母親、その一人が義母で、

その義母にずっと怒られ続けて育った夫は、

(人間は、基本的には自分が経験した記憶領域から引き出して育児をすると考えられるため)、意識的に自分の言動をコントロールする余裕がない時や、とっさの時は、息子に対して、(保健指導の善悪判断を基準に)怒り散らす傾向があるので

今回からは、一緒に健診に行くのをやめてもらいました。保健所の指導が、夫の怒りやイライラを、理性で抑えにくいくらいに増大させるからです。

私単独なら「これは変だ」と感じる指導は適当に聞き流せるし、(例えば栄養指導など。食べもしないものを食べさせる前提のアドバイスが多く、毎日の食事が一気に負担になるのです。)、夫が聞かない方がよさそうな指導は伝えないことができるので、今回この試みは成功しました。

(病院の健診や診察をどうしようか、検討中です。基本的には全部聞きたいはずなので、夫のその気持ちも尊重して、育児メンタルに害を与えない診察に限り、同行してもらおうと思っています。)

我が家はこうして「チェックシート余白の書き込み」と「夫に同行を遠慮してもらうこと」で、どうにか、大事に至るのを避けることができましたが、

他の家庭はどうだろう?

夫と同じような育ち方をしたお母さんや、常識に真面目なお母さんは、保健所のアドバイスを真摯に受けとめて育児がツラくなっていないだろうか?そのツラさが、子どもに影響していないだろうか。

 

きちんとやらねばと思って子どもと一緒の時間を楽しめないなら、健診で言われたことはなるべく忘れて、どうか気楽になってほしい、と願っています。

 

~~

 

わたし的には、あのチェックシートには「嘘」を書くのも、家庭を守る手段になると思っています。

 

現行チェックシートの設問で、自分と子どもが出来ていないことを正直に書いても、それに対してもらえるアドバイスが、変だからです。

 

私も次回からは、母乳については「飲んでいない」と嘘を書こうと思っています。素直に話しても、理解も賛同も得られないことが分かっているので、その話をすることに疲れました。

 

また、幼児の食事関係については今回すでに、嘘を試していて、

「悩みがあるかどうか」のチェックでどれかにマルをつけると例の別枠の栄養指導を勧められるのかなと思い、今回は何の悩みもなく順調に食べているような回答をしてみたのですが、それでもやはり栄養指導を勧められたので、回答内容は関係なく全員勧められるのだな、と分かりました。

しかしこの栄養指導がくせ者で、かなり重荷になるので悩みのある人ほど、受けないほうが無難だと私は感じています。

いまの時点で判明している栄養についての知識は得られますが、幼児がそれを実際に食べてくれるわけではないので、私としては栄養に関する研究のほうが遅れていて、幼児の本能のほうに何らかの正解があるだろうと思っています。

「食べなくても元気ならそれでいい」と回答してくれるインターネットの悩み相談のほうが真実に近く、メンタル的にも有益に感じます。

 

~~

 

それから、ついでに愚痴をこぼすと

子どもを頻発に扱う場所である割に、子どもが過ごしやすいつくりになっていない事と、飛び出し防止などの対策もとられていないので、待ち時間で親がとても疲労するのも、保健所が苦手な一因です。

これも20年前から変わりません。多分、50年前からも、変わっていないのだと思います。

(しかし子育てに力を入れている市では、保健所を含めた育児関連施設を、利用しやすい形に、転居や新築など行っているところがあります。民間と違い、事故やトラブル等の責任を負うリスクを予想しない点は従来と変わらないので、実際に利用してみるとその部分で親の疲労が民間の類似施設よりも大きく、結局イライラして帰る親が多い、と感じるのは否めませんが、何十年も手つかずの都道府県が多数のなかで、意欲ある改善をしていると思います。)

 

資本主義が全体競争ではなくなったあかつきには、競争が無いことでこうした停滞が増加しないように問題点のチェックと改善を意識的に行おう、と感じます。

いろいろ

アメリカンミュージックアワード2022」をBSでやっていたので録画して観ています。

 

最優秀新人賞のダウ・キャメロンさんのスピーチが素敵だと思いました。

 

内容をおおまかにまとめると、

「自分がこうした立場になることで、自分と同じ辛さを抱える人たちに、自分が得たのと同じような安心や愛を伝え、支援があることを世の中に広めるのに役立ちたい、

賞をとったのは皆のおかげで、この賞は皆のものなのだ」

という内容を本心から話しているのが素敵だと感じました。

 

 

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先ほど夫と話していたのですが

従順な子は育てやすいが、大企業の社員(または公務員)に類似した仕上がりになるよ、という話

言うことを聞かない息子にイライラがつのる夫に対して、言うことを聞かない子どもが「悪」だと言い切れるわけではない、と知って欲しくて話しました。

夫は仕事を通して「会社に従順な大人」の問題点を、日々、色々と感じているようなので、

いま息子に、従順であることを強制し、その結果、将来息子が、

いま自分がやきもきしている相手達と同様の思考に育つことを、本当に自分は望むのかな、のあたりに気付いて欲しいと思ったのです。

 

詳しく書くと、子ども時代にやるべきことは大人の常識では迷惑な行為にあたる物が多いので、それを知らない大人に養育される場合たいていのことを静止されるのだが、それに対して従順になれる子どもたちは、もともとの性質、もしくは従順を選択した結果の神経発達の状態、あるいはその両方により、成長しても社会や常識に(盲目的に)従順な大人に、なりやすいだろう、という話なのだけれど

この流れの良い面は社会の安定に役立つこと、

しかし別の面からみると「常識が影響して起きている問題」に自ら気付き対処するのが難しくなる一面があり、

今はこちらの問題が、人類全体で、大きくなっていると私は感じていて、

 

(これは、いま観ている「アメリカンミュージックアワード」を盛り上げている、バックダンサーの方々にも共通するように私は感じるのですが)、

 

おのずと「誰か引っ張ってくれる存在に従って行動する」ことになるのだけれど、

その引っ張る存在というのが、誰でも良いわけではなくて、上記のダウキャメロンさんのような感覚の、自分が輝くためというよりも全体のために活躍しようとする人であれば、従順なタイプの穏やかさや優しさなどが、きちんと良い方向に活かされて、地球と人類の存続が徐々に良い方向に回っていくと私は思っています。

 

 

そして、この引っ張る存在というのがまた、誰でもなれるわけではないと私は思っていて、やはり適性があると感じています。

いまの社会構造で、注目を浴びる立場になることは、

本来平等であるべきところが不平等にできているため、そこからおのずと生まれ出る黒い感情たちの矛先が、向かいやすい立場に立つことになるため、

 

それらのトラブルを必然的に起きるものだと理解して受けとめ、なおかつ全体のために尽力できる、といった、(私からみると)とても高度な能力が、適性として必要だと感じています。

 

(この説を聞いて、「せっかく成功したのに、他人からは攻撃されるし、しかも全体のために尽力しなきゃいけないなんて、良いことが何も無い」と感じる人は、その立場に向いていないと思うのです。何か別の、自分らしく生きられる道が見つかるといいなと思います。

つまり「勝ち上がり一番になりたい」思いだけが強いタイプもまた、その人自身が引っ張る存在であるというよりもやはり「引っ張ってくれる存在と共に動くことで活きる人達」で、なぜなら

(いまの社会での便宜上トップという表現をすると)、トップを目指す時に必要な努力と、トップに立ったあとに必要な能力が異なるので、

トップになりたい思いだけでは全体を良くできず、また身を守ることも難しく、トップに立った瞬間から、全体を考えられる能力との協力が必要になるからです。)

 

この話題のときは、いつもマイケルのことを考えます。ちょうど今、マイケルのウィーアーザワールドが、アメリカンミュージックアワードのラストに流れました。世界のためにこんなに頑張っていたのに彼の人生はなぜああなったのだろう?もし私がマイケルと協力できていたら何をアドバイスしただろう?やはり「荷を捨てる勇気を持つ」ことをアドバイスしたと思います。多額に集まってくる資金を全体の改善に使い自分は普通に暮らす勇気です。マイケルはマイケルなりにそう尽力したけれど自分が特別でいたい気持ちを捨てられなかったことがいろいろな面で災いしたように私には感じられ、50年という短い人生はマイケルを伝説にするためには役立っているけれど本人はどうしてこうなるのかが分からず状況に苦しみ悩んでいたように私には思えて、いつも思い出すのです。

 

(ちなみに、特別でいたい人が特別でいることを我慢?しなくても人類の存続上・個人の安全上問題がなくなるのは、全てが平等になった時だと私は思っています。家が無いから路上で寝泊まりせざるを得ない、のではなく外で寝たいから外で寝る、のを平等に選択できる世界、ゴールドやダイヤモンドはそれを好きな人がそれを持ち、好きではない人は持たない自由選択が、勝敗ではなく「各自の好み」でできる世界、いまで言う「特別」風な暮らしを選択できるけれどそれは優劣ではなく好みによる選択で行われ「実質は平等」である世界です。

人材は適材適所、物資は必要な場所に必要なものが届く、経済活動があるとしたらそれは、生死まで勝ち負けで決まる全体競争ではない世界、貨幣があるとしたら血液のように全体に行き渡り、必要量に違いがあってもそれは勝ったから多く分配されるのではなく必要に応じて各所に必要量が行き渡る世界です。)

 

~~

 

柴田愛子さんの発言をいろいろ読んでみました。

私のように社会構造そのものを変えるべきだとまでは言っておられず、

今ある状況のなかで、子どもたちの本能を阻害しないためにできることを、精一杯やろうとされている、保育の現場のかた、という印象です。

 

いきなり「子育てランド」を実現するのは大変だが、今ある保育現場で柴田愛子さんの保育を参考にすることは、割とやりやすいだろうと感じます。

ぜひ、よろしくお願いします。

 

~~

柴田愛子さん

明日は、先日言っていた「発達支援の教室」を見学・体験する日です。

 

今日はバスに乗って、行き帰りの予行演習をしてきました。

 

りんごの木、という教室なのですが、

りんごの木で検索したら「柴田愛子さん」という方がヒットして、

 

インタビューをいろいろ読んでみましたが、素晴らしい保育をされているな、と感動しました。

 

トットちゃんのトモエ学園は無くなってしまったけど、まだこんなに素敵な場所があった!と思って本当にうれしくなりました。

 

ここで保育された子どもたちは、人類と地球が存続するための社会改善を 自分たちで気付き・行える可能性が高くなるし、

いま柴田愛子さんと共に働いている人は柴田さんの保育を継承できます。ありがたいことだ、と感動しています。

 

息子が体験入園するりんごの木が、柴田愛子さんのりんごの木と同じ系列なのかどうかは、聞いてみなければ分かりませんが、

名前が同じなので、ホームページ作成の時などに、インターネットで目にしてはいるだろう、

インタビュー記事を読んだりして、多少、何らかの影響は受けているかもしれない、と期待しています。

チャンスがあったら話題に出してみます。

 

 

保育に関わる人たちに、ぜひ読んでほしい柴田愛子さんのインタビューが、インターネット上にたくさん載っています。

テレビにも時々出演されているようです。

 

 

保健所、保育園、幼稚園などに参考資料として読んで・観てもらうと良いと私は思います。

 

保健所に浸透すれば個々の家庭にも影響がいきますし、

保育園・幼稚園に浸透させることは、いま問題になりつつある、保育現場での虐待の解決にもつながります。

よろしくお願いします。

 

 

「人類の店じまい」を救う「子育てランド」

前回までに書いてきた、

人間の、未来(本来)の在り方である「得意分野で協力し合う社会」について、

その具体例の一つを、書こうと思う。

子育て分野についてである。

 

~~

 

なぜ子育てをピックアップするのかというと、

自分自身が、過去・それから現在進行形でも経験していて、問題点や理想形を認識しやすい、というのもあるし、

 

また、

「こどもに関することを後回しにするのは国家の店じまいだ」という発言をどこかで読んだが私もそれに同意していて、

次世代育成をうまくできない状態は生物としての危機だと私は思うので、「国家の店じまい」どころではなく「人類の店じまい」ではないかと感じているからだ。

 

教育システムや経済システムが改善し、適材適所の状況が良くなったら、私が今考えつくものよりも、もっと、状況に即した良いものが考えられるようになると思うけれど、とりあえず今、現状に対して、「こうであればもっと良いのに」と私が感じることを書いてみようと思う。

 

~~

私は肉体的な反射神経や運動神経があまり良くないので、

息子が活発に動くようになってからは、安全対策に自信が持てない為、外遊びは夫と一緒に行ける週末に限定していた。

もっと外遊びをやらせてあげたいと思いつつも、身の安全には変えられず、

その変わりに、日中の室内で登る・走る・飛ぶなどをある程度容認して、私にできるサポートをしながら、家の中の物を使って運動を行っていた。

最近はそのような状況だったので、

今日、流れで、私と息子が二人きりで、ベビーカーも抱っこ紐も使わずにフリーの散歩をすることになったが、そうした散歩はずいぶん久しぶりのことであった。

 

久しぶりに、二人で道を歩いてみると、そこには危険や、他者の迷惑・邪魔になるシチュエーションがいっぱいで、

「成長段階に従って息子が本能的にやりたがる行為」(小石拾いとか、いろいろ)を、満足にやらせてあげることがほとんど出来なかった。

「ここではこれはダメ」「危ないからそっちはダメ」等、

周囲の状況的に、車が通ったり、子どもが遊んだり触ったりするのを喜ばれない場であったりするので、

少し歩けばそんなことばかり言わねばならず、

「こんな日々を送ることは、子どもの成長にとって、良いとはいえない。」としみじみ実感した。

 

~~

こうした現代育児に対して、私が今、理想としている子育て環境は、

・広大な土地で、

・たくさんの大人によって、

・子どもの個性を妨げない保育を十分に行える、

「子どもの王国」とでも言えるような、通称「子育てランド」というものである。

(ネーミングがダサいのは私のセンスの問題なので別の名称でもよい。)

 

~~

広大な土地を必要とするのは、子どもが成長段階でやりたがる行為をできるかぎり全て、やらせてあげるため。

なおかつ個性対応もできるように考えたいので、やはり必要な土地は広くなる。

階段を登りたい子は好きなだけ階段を上り下りできるし、石をつまんだり投げたりしたい子は好きなだけそれをできるし、本を読みたい子は好きなだけ読んでいられるし、水遊びをしたい子は好きなだけできるし、虫を探しに行きたい子は好きなだけ探せる。そうした場を十分に用意したいので広い土地が必要で、

それらに対応するために大人の人数も十分に必要になる。

大人がたくさん必要なのは、個性対応のためというのに加えて、運営に必要な作業を適材適所で役割分担するためでもある。

適材適所は「産む」段階からすでに始まる。「誰でも普通に産める」のが常識ではなく実際は産むのに適した人、という個性があると感じるからである。

一夫一妻の現在社会において、その常識に適応できず多数の生殖行為を求める人や、多産の人、戦場において強姦欲求に駆られるタイプの人など、こうした生殖能力の強い・産むのに適した人がこの能力者だろうと私は考えている。

産むのに適した人たちを中心に、産みたい人が出産した子どもたちを、

育てるのに適した人たちで、身の回りのお世話をする。

 

食事の支度が得意な人、掃除が得意な人、

歩いたりこぼしたりする子どもたちに無理なく食事をさせるのが得意な人、

イライラせずに着替えをサポートできる人、などなど、得意分野で分担する。

遊びの時間は、「子どもの本能的な動作を尊重し見守るのが得意な人たち」を中心に担当、農業とかスポーツとか専門的な分野の学びはそれに詳しい大人が知識や技術の伝達を担当、また、とくに何をするでもないが子どもが好きでかわいがりたい人が、そこかしこで愛情を与える役割を担う、など、たくさんの大人が必要である。

それぞれが、得意な分野で次世代育成に携わる。

「産んだが育てられない」でも大丈夫だし、逆に産めなくても子どもを育てられる。

こんな「子育てランド」が各地域にあって、いつでも・いつまでも預けられるし、親子で連泊しても良い、となれば

親や子にかかるストレスは皆無に近くなり、子どもの可能性を最大に引き出した育児が可能になる。

 

~~

子ども時代には、その時期に十分体験しなければならないことが、遺伝子に組み込まれた状態で存在するので、

大人社会の常識を教育するのはそれらを十分にやり終えてからでも良いはずだ、と私は考えている。

よって子育てランドは、子ども時代に必要な経験を十分に行い、個性に従った神経発達を十分にうながすための、子どものための王国である。

「本能的な発達を最重視すべき時期」が何歳までなのか、についてはこの先、子育てを続けていく中で感じ取れるのではないかと予想している。

20年前の子育ての時も、「あれ?なんだか、状態が変わったんだな」と感じた段階が、何度かあったので、

成長と神経発達を続けながらも、個人で集中してそこを発達させたい段階から、脳的に社会性を重視してくる段階というのが、おそらく有るように感じている。

そこに個人差があるならそれにも対応できるようにするのが良いだろう。

まとめ

前回の記事に書いたのが、

私がよく「教育システム改革」と言っている事の、主な内容で、

 

 

この教育システム改革によって、個々の性質を阻害せず伸ばして成長した子どもたちが、それぞれの得意分野で協力しあって社会を回す「適材適所の世界」を作ると、人類全体の可能性が飛躍的に伸びる、と私は考えているわけだけれど、

 

そのためにはさらに、「経済システム改革」が必要だと考えている。

つまり「賃金」が重要アイテムである現行システム下では、その賃金自体に、職業で金額の差がありすぎると、

 

せっかく個々の素質を伸ばしても、「自分には向いていないが賃金の高い職種」に就こうとする流れが終わらないので、なかなか社会が適材適所にならない。

 

経済システムには他にも問題点がいくつかあるけれど、とりあえずこの点をまず改善すれば、

考えるべき場所に考えられる人材が就き、実行が重要な場に実行力のある人材が就くなど、社会全体が適材適所になりやすくなるので、

おのずと、他の問題点にも気付いたり・解決したりする力が、現在よりも、社会的に上がっていくだろうと考えている。

 

 

こうして始まっていく適材適所の社会が、

かつて縄文時代には普通に行われていた、「平等、かつそれぞれの得意分野で協力しあい・地球とも調和が取れているサステナブル社会」を、

現代の増殖した人類で再現し、

 

それはさらに、ただ単に「過去を再現する」だけではなく、

 

かつての人類には避けようがなかった「宇宙や地球規模の天災」や「近隣宇宙開拓」等にも、

適材適所の協力で、進歩したテクノロジーを適切に使いこなすことにより、的確に対処できるという、

より進化した適材適所文明を、構築することにつながるだろう。

 

と予想しているのが、

私の考えている内容の、だいたいの全体像である。

 

すべてをきっちりこの通りに進められないとしても、だいたいこのような方向に進んでいけば、地球と調和をとりながら人類も繁栄を維持できる状況に、なっていくと私は思っている。

 

(やることが色々あって複雑なように感じるが、ポイントは「多様性を認め合い、すべてにとってwinwinになるように考えていく」、これが、人間社会の改善にも地球全体の改善にも、おそらく宇宙全体の調和にも、共通して言える法則だろうと思う。)

 

~~

多様性の話題が出たのでついでに追記しようと思うが、

私は息子には格闘系の進路に進んでほしくないと個人的には思っているけれど、それは私が、「愛する存在が痛めつけられるのを正視できないから」であって、格闘技そのものを否定しているわけではない。また、息子が本当にそちらに進みたいと言った場合にも、止めるつもりはない。

戦いを好む性質を持つ人にとって、社会への害を最小限に、比較的自由に闘える場やそれを見る場があることは、多様性の容認やwinwinの観点からも理にかなったものだと思うので、格闘技の存在は大いに意義があると思う。

ただし先日書いたように、「現行システム下で能力を発揮して成功できる人々」の枠に、格闘技系も入るので、

自己表現で満足して終わらず、

「社会的弱者にならざるを得ない人々をどう平等に浮上させるか」に尽力できれば、不要な害を避けやすいし、その行動が、社会を未来につなげる歯車になる、

というのが、その他の成功職種と同様、現行システム下では意識的に努力せねばならない部分であろう、と思う。

前回のまとめ、からの続き

前回のまとめ

『自分の自然な欲求に従って、なるべく自分の好きなようにいろいろできる教育環境を模索していくと、

子どもたちの、十分な神経発達を促し、それぞれがもつ能力をうまく発達させることにつながり、

それは人類全体を改善・飛躍させることにつながると私は思っている。』

これを社会的にどう実践していくか、について、今回書いていく。

 

~~

この「欲求に従って自由にいろいろできる教育環境の模索」は、個々人で行える範囲に限界があるのが現状で、

(現に我が家でも、「どれだけ運動神経が良くても、幼稚園に入ったら安全面を考えて制止されます」と、保健所で「暗に発達させないことを求める指導」をされるのが現実である。また、苦手な「全員でやるダンス」などについては、「幼稚園で普通に過ごせるように」それをできるようになりましょう、という指導がなされる。)

こうした、頭打ち現象が起きないように、

 

社会全体で、「社会的な枠組みとして」個性に対応する保育・教育を進めていくことは、やはり不可欠になってくる。

 

~~

少し前に、国連から、日本の障害児教育に改善を求める通達があり、このブログでも話題にした。

その時に書いた内容が、今回の記事に共通する内容である。

 

 

 

国連の要求は、「障害児」のくくりで隔離教育をせず一般と同様に学べるようにしましょう、といった内容で、

 

これは、国連が現在日本で行われている「特別支援教育」を悪い方向に誤解しているから、そういう要求をしてくるのだ、という意見もあって、

見る角度によってはそれも確かにそうなのだが

(日本の特別支援教育は、今現在の「一般教育システム」では学びづらい性質を持つ人たちを、より個別対応に近い環境で、個人のペースで学びを進められる場所になっているので、「現行システム下」では、この特別支援という「隔離」が、安全な学び場として、ある程度有効に機能しているから。

「ある程度」と書いたのは、

差別や偏見などの、「国連が考える「隔離」に近い意識」を持つ人々も一定数、社会に存在するので、

「差別もされているし、一方、守られた環境で安心して学べる場でもある」のが現実だから。)

 

このように「現行システム下の日本」では、ある程度効力を発揮しているこの隔離教育だけれども、

本来(≒未来)は、こうした「特別支援」に区分けされている人たちも「違う特徴を持つ同等の仲間」として互いに補い合い、協力し合う関係になるので、

いま「一般」とされる人々と同等の立場で学びや生活をできるように、社会を改善することは、やはり必要な変化だと私は考えている。

 

(「資本主義的な生産性」を基準にした価値判断だと、「同等になるなんて無理な話だ」と思うかもしれないが、

この「資本主義的価値観」自体が、地球全体とは相容れない「人間独自の考え方」で、人間の増殖と共にその弊害が大きくなってくるので、

人類が、繁栄と存続の両方を考えるなら、必然的にこの価値観も変化させていかねばならず、

その結果新しく常識となってくる価値観は、生産性だけに注視しない・もっと多様な価値が平等に認識される社会になるので、

今まで水面下に沈んでいた様々な価値観が、同じラインで輝くようになり、

その社会では、今まで無価値とされてきた特徴を持つ人々とも、互いの得意分野で対等に協力し合うことが、必然かつ当たり前になる。)

 

 

そうした未来を考えると、

いまの時点で、個性対応できる保育・教育を社会的に模索していくことは、

・国連の要求に対処するという目前の問題解決でもあるし、

・「可能性ある明るい未来」に向けた、建設的な取り組みでもあるし、

・人類が、繁栄を維持したまま存続したいと考える場合は、この取り組みが、避けることができない不可欠の課題にもなる。

~~

 

様々な個性がある状態で、どう学問や日常生活を行えば良いのかは、

「窓ぎわのトットちゃん」に出てくる「トモエ学園」のように、

過去、現実に行われた良いモデルケースが、参考の一つになると思う。

 

 

 

~~

未来にむけて個性対応できる保育・教育を模索していく一方で、

 

今現在、すでに現行システム下でも、個性を花開かせ・活躍できる立場にある人々が、どうするか、についても書いていく。

 

 

何度か書いてきたが、

現行システムは、本来あるべき状態に対してかなり片寄った枠組みで「良い悪い」・「高等下等」などが色分けされているので、

本来は同じラインの、それぞれ違う能力を持つ者として協力し合うべき人々が、

数多く、システム上「社会的弱者」にならざるを得ない状況になっている。

(これについて、「本人の努力が足りない」等の、「社会に適応しない」個人の問題として話されるのが、現行システム下でよく起きる状況だと思うが、

価値観やシステムの中に自分の能力で貢献できる領域が無く、得意とはいえない方面に努力することを要求される社会において、

それがうまくできず、その社会システムでの弱者になることは、個人の範囲を超えた問題が根底にあるので、

その現象を、個人の努力不足を理由にして糾弾することは、基準がいろいろズレているように私には思える。

そもそもスタートから、自分の持ち得た特徴が「現行社会システム」の片寄りの、有利なほうに合致するかどうかで、生きるのに有利な人・不利な人がいて、

さらにそのシステムそのものが、人類と地球全体にとって最善のものでも無い。)

 

 

こうした片寄った状況で、自分が自己表現でき、かつ現行システム下での「成功」ができる事は、

やむを得ない理由でそうならない立場の人々から、素直な羨望や賞賛をもらえる一方で、やはり恨み・妬みの矛先になることもある。

道徳を説いているのではなく状況的な事実だ。

 

表立って活躍できるのは、現在の社会システム的に自分の能力が有利な範囲にあったこと、それから

数ある役割の中で、自分の役割が、

大勢に見てもらうとか、何らかの影響を広範囲に与えるなどの、どちらかというと表立った方法で役立つ担当だからなのだ、と理解して、

その役割を果たしつつも、

自分を表現して満足する、で終わらずに

「現行システムで社会的に不利な立場にならざるを得ない人々」が、本来の平等に協力し合う状態に浮上するために、いま何ができるか、自分なりにできる手助けを考えて、意識的に行うことで、

 

個人的に自分自身が受ける害を回避しやすくなるし、

人間社会の「文明の進化に伴う退化」を食い止め、「本当の進化と未来」につなげるための、歯車にもなれる。

神経発達について

二つ前の記事に、

『本能的行動を無視した常識の強制、による主な弊害は、神経発達の阻害ではないかと考えている』と書いたのだが、それについて、もう少し全体像を書こうと思う。

 

~~

以前から私は、「人間にはタイプ別がある」と言っていて、十字でざっくり4タイプに分けて、それぞれを仮にA・B・C・Dと呼んでいた。

 

 

今は、

これらのタイプは、ハッキリ十字に区分けできるというよりも、

「なんとなく十字に分類できる」けれど、その中でもっとグラデーションまたはマーブル模様のように、得意とする分野が、それぞれ微妙に違い、違う能力に秀でていて、

それは、生まれ持った資質プラス、生育環境で行われた神経発達の状態によって、作られているのだろう、と考えている。

 

 

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例えば、言語によるコミュニケーション能力にフォーカスすると、

 

幼児の成長段階として、

まず最初に「見たものを真似して表現する」段階があるのだが

以前「A」と呼んだタイプの言語コミュニケーションもこの様式になっている。

私の身近で言うと、夫や義父がそのタイプで、身近な相手の話し方・リアクション・話す内容などを真似て(真似るというよりもコピーする、のほうが、表現として近いように感じる)、コピーして自分も話す、という手法をとる。意思でやっているというより自然にそうなってしまう・そうするしかないといった印象をうける、なぜなら相手が敵意で話した表現をもそのままコピーして返すので敵意で接してきた相手との関係修復を自力で行えず何十年もそのまま過ごすから)

つまりこのタイプは何らかの要因で、言語コミュニケーションに関して、その発達時期に、自分で試行錯誤する機会が大幅に少なくなり、神経発達がこの段階で止まったのではないかと私は思っているのである。

 

 

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この分野に関して言えば、

「コピー」という表現がぴったりのタイプもいるし、それとは微妙に違う「合わせる」になるタイプもあるし、その中には「合わせる」に徹するタイプもいれば「合わせることもあるし場合によっては合わせないタイプ」などもあり、こうした違いを数々見ているうちに、神経発達状況の違いが表面化しているのだと感じるようになった。

 

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こうした神経発達、

私に関して言えば、ブロック遊びやゲーム機器・運動遊びなどはほぼ行っていなかったので、いま息子とそれらの遊びをやろうとするとき、私の遊びの発想がとても稚拙である。

考えようとしても、たいしたことを思いつけないので、感覚的には、「その分野に関して豊かに発想するための情報回路がつながっていない感覚」、神経発達が未熟な感覚である。

こうした自分の感覚からも、なにかを出来る・出来ないは、先天的な要因にプラスして、神経の発達時期にその分野を経験し試行錯誤したかどうかがかなり影響しているように思った。

 

こうして書いてみると、

たくさん経験し試行錯誤の機会に恵まれた分野の神経が発達しやすいという、ごく当たり前の話でもあるのだが、

「どのように感じるか」とか「どう話すか」などの、一見神経発達とは関係ないような印象の、性格的なことも、こうした神経発達の長短が影響し、表面的な人格形成につながるように私は感じている。

 

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先天的に、「この方向には、そんなに発達しない」というのがある程度あって

(例えば、骨格や筋肉がそんなに運動にはむいていない、とか)

そこにプラスして、生育環境での、経験や自発的な試行錯誤などで神経の発達状況が変わり、表面的な特徴を形成するのだろうと思っている。

 

 

 

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前述の義父についてだが、

私が出会った当初は、義母(つまり義父の妻)を完全コピーした状態で私と会話していた。

義母は、ある時期の仲違いをきっかけに、それ以来、敵意を持って義父とコミュニケーションしているので、それをコピーした義父は義母からすると「常にムカつく会話をしてくる(もともとは義母が義父をムカつかせようと思って放った攻撃がそのまま返っている状態)をしてくる人」になるので二人は当然、上手くいっておらず、

また、義母の攻撃的な会話をコピーした状態で私に話しかける義父を私もやはり、好きになれず最初は拒絶した。

その後義父は、その反省を活かし、

良い関係を維持している「私と夫のコミュニケーション」を学びコピーする努力を始めた。方法は、私たちが義実家に滞在している間の、会話の盗聴である。

努力は実を結びつつあり、義父と私たち夫婦の関係性は改善してきた。

この成功をもとに義父は、今度は

私と夫のコミュニケーションをコピーしたものを、義母にも使用する試みを始めている。

義父は当然、私たち夫婦よりも義母と過ごす時間のほうが長いので、コピータイプの義父にとって、理想モデルが居ない状態で目の前の義母に理想を行うことはなかなか難しいから、成果を得るには時間がかかるかもしれないが、以前のまま義母をコピーし続けるよりは関係改善の希望がみえてくるだろう、と私は思っている。

学びの方法に盗聴を用いたというのが、

義父は意外と、自分自身の特徴をよく分かっているのだなと驚いたし、常識に逆らってでもそれをやろうと思ったあたりに、今回の自己改善への本気度を感じた。

プライバシーの面からは否定される盗聴だが、義父のようなコピータイプの人にとって、自分を改善しようと思ったら、良いと思える見本をひたすら見て学ぶしかないので、同居するか・こっそり見たり聞いたりして学ぶかくらいしか、方法が無い。しかも同居というのは、対面のコミュニケーションを伴うので、自分の性質について相手の理解が無い状況だと、結局また、義母と陥ったような敵対関係になってしまい、うまく学べない可能性が、多分にある。

私は初期に「話し方教室」を勧めたのだが、そういう場で学ぶ「型どおりの会話」を実践で応用して使うのはコピータイプの人には難しいかもしれない、と、勧めた私自身も思ったがやはり義父もその道を選ばなかった。こうした現状を思うと、盗聴というのが、学びの方法としてクローズアップされるのは、仕方がない事のように思う。コピータイプの特徴が社会的に理解されれば改善方法の道も、もっと広がるかもしれないが。

実は、義父だけではなく義母もまた、コピータイプに近い性質を持っているのだが、義母も私たちとのコミュニケーションを重ねるにつれ自己改善を意識し出した。けれど、盗聴という手段には出ていない。

そして盗聴をしていない義母と、盗聴をしている義父では、義父のほうが進みが格段に速いのが現実だ。(見本の会話パターンを見る頻度の違いに加えて、義父の場合は自分の特徴と改善方法をあらかじめ自分で理解していた、という差もある。)

物事には、見る角度により良い面悪い面が両方あるというのがここにも言える、と私は思っている。

 

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総合して、

 

冒頭で書いた、「神経発達の阻害が起きやすい」現状が、今現在の人間社会なのだけれど、

自分の自然な欲求に従って、なるべく自分の好きなようにいろいろできる教育環境を模索していくと、

子どもたちの、十分な神経発達を促し、それぞれがもつ能力をうまく発達させることにつながり、

それは人類全体を改善・飛躍させることにつながると私は思っている。

 

 

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やや話は変わるが、

幼児期の記憶はだいたい3歳頃からの記憶が、大人になっても残っているけれど、

それ以前の記憶も、脳のどこかの領域に保存されていて、

主に子育てに携わる時、その記憶領域にアクセスして、やり方を引き出しているのではないかな、と私は感じている。

自分では全く、親にされたことを覚えていない事でも、自動的に自分も子育てで同じことをやっている、というシチュエーションをたくさん経験したので、

生物が種を存続させるために、脳がそういうシステムになっているのかもしれないなと私は思っている。