以前から私が、
人間について、それぞれが持つ得意分野により、ある程度タイプ分けしていたものを、
今回は「視野の広さ」の視点からみて、ざっくり分類し、
それぞれに適した配置を具体的に書いた、ようなことで、
人類の社会状況から地球全体までを含めた大規模改善に、最も効果的な方法の一つだと私が考える、「教育システム」と「経済システム」の改革が、まだ行われていない現状でも、いま取り組もうとしても取り組めるような工夫も付け加えた。
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二つの視野について、
現行の「立場の上下」の影響で、
「状況判断視野のほうが能力的に上」のイメージで受け取られそうだが、そうではない。
状況判断視野に優れたタイプが全体判断をすることで、片寄りの少ない・バランスの良い発展ができたり、あらかじめリスクを最小限にできる等の特徴があるが
いろいろ見えるがゆえに進度がゆっくりになる特徴もあり、
それに対して現実的視野に優れたタイプは、広範囲に考えない特徴が、的を絞って突き進む利点につながるので、ピンポイントの目的達成の、速度が早い。
よってそれぞれの特徴を活かして、
全体判断により、いま早急に突き進めるべき課題を決めたら、現実的視野タイプに任せて、比較的早い速度で、ある程度の目的達成を果たす、
そうしたら再び全体判断に戻り、
あえて的を絞って突き進んだことで起きる、別の部分への悪影響・起きかけている害などの対策を開始する、という感じで
それぞれの良さが、良い状態で活かせるように協力して物事を進める、パートナー関係と見るのが、正確だと思う。
(現実的視野タイプが全体判断を担うと、最初からピンポイントに狭められた範囲のなかで、強烈に指示を出す状況になりやすいので、何かが勢いよく進む一方で、見えていない範囲に起きる害も猛スピードで進んでしまうため、全体判断は、状況判断視野に長けたタイプが担うのが安心だろうと私は思っている。だが状況に余裕がある場合などは、あえて「現実的視野」にリードを任せて、安定安心よりもスリルやエンターテイメントを楽しむといった応用もできる。
しかし今現在のように、ストッパー係の状況判断視野タイプが社会的に機能していない状態でスリルとエンターテイメントに突き進んでいる状況は楽しさよりも本当の危機が迫ってしまうので安全に楽しみを続けるためにもまずは対等な協力関係をつくることが先決だ。)
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この「視野の広さ」で職場改善を行う案は、あくまでも「今現在」の、
人材採用状況や、役職決定方法で起きている社会的な害に対して、
今現在の社会環境下で、良い効果が出ると期待できる対策であって、
仮に、これが広く行われるようになった段階では、再びその時点の状況において、その状況に合った新たな微調整が必要になる。
状況に合わせた微調整をせずに同じことをやり続けると、たとえばこの「視野の能力」が先天的か後天的かはまだはっきり分かっていないけれど、それを度外視してどちらかの視野の広さを必ず身につけなければならない等の無理な矯正が横行し出したり、
視野の能力と無関係な能力を持つ者は非生産的に見られ社会的弱者になってしまう等、改善よりも弊害が目立ってくる。
状況を改善する方法というのはその時々の状況に合わせて常に、新たに考え直す必要があると私は考える。
これを思うと、
宗教における「原理主義」(最初に定められたものが最も正しいとする考え)は、
これは「人類の状況改善を目的とした場合」は、「その方法としては適しておらず」、
「自分はこの考えが好きだからこのように生きたい」という「多様性の一つとして互いに認め合う」ものだと考えるほうが適切なように私は思う。
例えば
イエスキリストが離婚を禁じたのは当時社会的弱者だった女性の立場を守るためだったという話を何かで読んだが、
そうだとするとそれについて現在考えるべきなのは、社会的弱者を守るためにどうするかの視点であって、やみくもに離婚を禁じることが果たしてイエスキリストの意思を継いだ行動なのかと考えると必ずしもそうとは言えなくなってくる、ということであり、
あくまでも、対策が考えられた当時の状況における、「何を」改善するために、その対策が用いられたのか、を見ないと、同じことをしても当時と同様の救いを現在社会にもたらすことはできない。
「離婚をしないという考えが好きだから自分はそのように生きたい」、という多様性の一つとしてならば、そうすることはそれぞれの自由だと思うが、社会状況改善のために広く強制するとなると、
最初にそう定められたから今も正しい、とは言い切れないので、「目的を達成する方法」としては、現在状況に合った再考が必要なのだろうと思う。
キリストについて知識豊富なわけでもないのに例題に使わせてもらい申し訳ない。決して宗教批判ではなく、
このように、その時々の状況に合わせて、とるべき対策は刻々変化するものだと私は思っている、という事を言いたかった。
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そうなると、将来的に重要なのは
「今現在私が考えつく案をひたすらやり続けること」ではなく、
「その時々の状況をみて適切な対策を考えられる人間を育てる」事になってくる。
どのようにすればそのような人間が育ちやすいのかと考えると、今までも言ってきた、「個々の能力を阻害せずに伸ばす教育システム」にすることが必要なわけだが
最近問題になっている幼児保育の段階からそれがあてはまるのではないかと私は思っている。
つまり、幼児に大人の生活習慣を教え込もうとせず、幼児期の本能的な欲求のまま自然に振る舞える環境を、出来る限り作ってあげることが、
人間の能力発達を最大限に広げる意味でも、また、保育者の負担増からくる虐待を、減らす意味でも、いま必要な対策の一つではないかなと私は感じている。
実際自分で子育てしていても、
大人の一般常識に沿ったマナーなどを一応子どもに教えるのだが、幼児の本能はそうした行動を望んでいないので、子どもはどうしても本能に従った行動を取ろうとする。これは能力発達の意味では大切なことで、この時期にその動きをすることで何らかの能力を獲得していくという、成長の段階を踏んでいる状態なので、それを抑えて一般常識を行わせることは、発達上、必ずしも善とは言い切れない。
加えて、本能の欲求は強いので、子どもに一度二度、常識を教えても、それに逆らい何度でも本能的行動を行おうとする。
これは能力発達としては正しい行為なのだが一般常識的には「悪いこと」だとされ、保育を担当する大人が矯正しなければならなくなる。
だが本能の矯正はそう簡単にいくものではなく、しかしやらねばならないという事になると、どうにかしてやらせるために虐待まがいの指導がだんだん増えていくという事だと、私は自分の育児から感じた。
私自身としては、
一応常識は教えるが、それをやることを徹底しすぎない・子どものやりたいようにやらせつつ一応世間の常識も教える、みたいなやり方をしている。
なぜなら、これ以上きちんとさせようと思ったら虐待まがいのことをやらねばならなくなるし、今度はその「強制的な矯正」による別の害が、子どもの心身に起きてくるように感じるからだ。
本能的行動を無視した常識の強制、による主な弊害は、神経発達の阻害ではないかと私は考えている。樹状に発達するシナプスが、きれいにそうならないイメージである。
いろいろなことを考える力が人類全体で弱くなってきているのは、先天的な向き不向きもある程度あるかもしれないが、
後天的に原因があるとすると、この幼児期の、本能の阻害も、影響しているのではないかと感じ始めている。
虐待保育問題について、
人員が足りない・給与が十分ではない等の、保育士の待遇の問題、いま挙がってきているそれらに加えて、私が育児で感じた上記の問題も、ぜひ考えてみてもらいたいと思う。
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余談だが、
クリスマスは宅配荷物が多いのに、使いもしない荷物をそこに時間指定で入れ込みちゃんと届けろと注文をつけるなんて迷惑な話だ、といった会話を今日したのだが
よく考えたら私自身も、昨日なにも考えず注文した本の到着予定日が偶然25日で、混雑時期の荷物の遅延に、自分自身も加担していたのだった。
必ず届けろ等の注文をつけていない点は多少の救いではあったが「自分だって同じことをやってるのに他人には怒る」現象をまたやってしまった。他者を責めるのは自分も同時にブーメラン的な危険を背負うので発言には熟慮が必要だなと改めて思う。
人間界に起きる現象の、仕組みを、ある程度は分かっているつもりの自分、それゆえ他人に意見するのがごくたまにである自分でも気を抜くとすぐにこうなるので、
何も気にせず誰かの何かを指摘することは常に諸刃の剣を手にしているようなものだから日頃からそうした職業に就いている方々はどうぞ用心してほしい。
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さらに余談だが
現在の治安的に、皇族の警護はいらないのではないかとの意見について、
政治的な、税金の使い道が、弱者救済に上手く機能しない場合は、不満の矛先が皇族に向き危害につながることが無いとは言い切れないのではないかと個人的には思った。安倍さんの殺害が起きた心理的背景を踏まえての考えだ。
どうするのが良いまたは悪いの判断は、個人の信念や見る角度により変わるので説明が長くなり、今は時間が無いのでそこに言及できないが、今ある状況に対して起こりうる出来事ではあるという事だ。税金管理部門の方々、弱者に厳しい態度を取りがちだと、それが災いして、日頃から守りたいと思っている大事な存在を危険にさらしてしまうから気をつけて。
最後に、
全体を通して、良い・悪いは「地球と人類の存続」を基準にして判断している。
また、私が書いている内容は何かの暗喩ではなく書いたままの内容なので、
「宗教や子育ての話題にカモフラージュしているがこれは実は自分に向けた何かの意見だ」とは考えず、書いてある内容を、書いてあるそのままの意味で読んでほしい。