柴田愛子さん

明日は、先日言っていた「発達支援の教室」を見学・体験する日です。

 

今日はバスに乗って、行き帰りの予行演習をしてきました。

 

りんごの木、という教室なのですが、

りんごの木で検索したら「柴田愛子さん」という方がヒットして、

 

インタビューをいろいろ読んでみましたが、素晴らしい保育をされているな、と感動しました。

 

トットちゃんのトモエ学園は無くなってしまったけど、まだこんなに素敵な場所があった!と思って本当にうれしくなりました。

 

ここで保育された子どもたちは、人類と地球が存続するための社会改善を 自分たちで気付き・行える可能性が高くなるし、

いま柴田愛子さんと共に働いている人は柴田さんの保育を継承できます。ありがたいことだ、と感動しています。

 

息子が体験入園するりんごの木が、柴田愛子さんのりんごの木と同じ系列なのかどうかは、聞いてみなければ分かりませんが、

名前が同じなので、ホームページ作成の時などに、インターネットで目にしてはいるだろう、

インタビュー記事を読んだりして、多少、何らかの影響は受けているかもしれない、と期待しています。

チャンスがあったら話題に出してみます。

 

 

保育に関わる人たちに、ぜひ読んでほしい柴田愛子さんのインタビューが、インターネット上にたくさん載っています。

テレビにも時々出演されているようです。

 

 

保健所、保育園、幼稚園などに参考資料として読んで・観てもらうと良いと私は思います。

 

保健所に浸透すれば個々の家庭にも影響がいきますし、

保育園・幼稚園に浸透させることは、いま問題になりつつある、保育現場での虐待の解決にもつながります。

よろしくお願いします。

 

 

「人類の店じまい」を救う「子育てランド」

前回までに書いてきた、

人間の、未来(本来)の在り方である「得意分野で協力し合う社会」について、

その具体例の一つを、書こうと思う。

子育て分野についてである。

 

~~

 

なぜ子育てをピックアップするのかというと、

自分自身が、過去・それから現在進行形でも経験していて、問題点や理想形を認識しやすい、というのもあるし、

 

また、

「こどもに関することを後回しにするのは国家の店じまいだ」という発言をどこかで読んだが私もそれに同意していて、

次世代育成をうまくできない状態は生物としての危機だと私は思うので、「国家の店じまい」どころではなく「人類の店じまい」ではないかと感じているからだ。

 

教育システムや経済システムが改善し、適材適所の状況が良くなったら、私が今考えつくものよりも、もっと、状況に即した良いものが考えられるようになると思うけれど、とりあえず今、現状に対して、「こうであればもっと良いのに」と私が感じることを書いてみようと思う。

 

~~

私は肉体的な反射神経や運動神経があまり良くないので、

息子が活発に動くようになってからは、安全対策に自信が持てない為、外遊びは夫と一緒に行ける週末に限定していた。

もっと外遊びをやらせてあげたいと思いつつも、身の安全には変えられず、

その変わりに、日中の室内で登る・走る・飛ぶなどをある程度容認して、私にできるサポートをしながら、家の中の物を使って運動を行っていた。

最近はそのような状況だったので、

今日、流れで、私と息子が二人きりで、ベビーカーも抱っこ紐も使わずにフリーの散歩をすることになったが、そうした散歩はずいぶん久しぶりのことであった。

 

久しぶりに、二人で道を歩いてみると、そこには危険や、他者の迷惑・邪魔になるシチュエーションがいっぱいで、

「成長段階に従って息子が本能的にやりたがる行為」(小石拾いとか、いろいろ)を、満足にやらせてあげることがほとんど出来なかった。

「ここではこれはダメ」「危ないからそっちはダメ」等、

周囲の状況的に、車が通ったり、子どもが遊んだり触ったりするのを喜ばれない場であったりするので、

少し歩けばそんなことばかり言わねばならず、

「こんな日々を送ることは、子どもの成長にとって、良いとはいえない。」としみじみ実感した。

 

~~

こうした現代育児に対して、私が今、理想としている子育て環境は、

・広大な土地で、

・たくさんの大人によって、

・子どもの個性を妨げない保育を十分に行える、

「子どもの王国」とでも言えるような、通称「子育てランド」というものである。

(ネーミングがダサいのは私のセンスの問題なので別の名称でもよい。)

 

~~

広大な土地を必要とするのは、子どもが成長段階でやりたがる行為をできるかぎり全て、やらせてあげるため。

なおかつ個性対応もできるように考えたいので、やはり必要な土地は広くなる。

階段を登りたい子は好きなだけ階段を上り下りできるし、石をつまんだり投げたりしたい子は好きなだけそれをできるし、本を読みたい子は好きなだけ読んでいられるし、水遊びをしたい子は好きなだけできるし、虫を探しに行きたい子は好きなだけ探せる。そうした場を十分に用意したいので広い土地が必要で、

それらに対応するために大人の人数も十分に必要になる。

大人がたくさん必要なのは、個性対応のためというのに加えて、運営に必要な作業を適材適所で役割分担するためでもある。

適材適所は「産む」段階からすでに始まる。「誰でも普通に産める」のが常識ではなく実際は産むのに適した人、という個性があると感じるからである。

一夫一妻の現在社会において、その常識に適応できず多数の生殖行為を求める人や、多産の人、戦場において強姦欲求に駆られるタイプの人など、こうした生殖能力の強い・産むのに適した人がこの能力者だろうと私は考えている。

産むのに適した人たちを中心に、産みたい人が出産した子どもたちを、

育てるのに適した人たちで、身の回りのお世話をする。

 

食事の支度が得意な人、掃除が得意な人、

歩いたりこぼしたりする子どもたちに無理なく食事をさせるのが得意な人、

イライラせずに着替えをサポートできる人、などなど、得意分野で分担する。

遊びの時間は、「子どもの本能的な動作を尊重し見守るのが得意な人たち」を中心に担当、農業とかスポーツとか専門的な分野の学びはそれに詳しい大人が知識や技術の伝達を担当、また、とくに何をするでもないが子どもが好きでかわいがりたい人が、そこかしこで愛情を与える役割を担う、など、たくさんの大人が必要である。

それぞれが、得意な分野で次世代育成に携わる。

「産んだが育てられない」でも大丈夫だし、逆に産めなくても子どもを育てられる。

こんな「子育てランド」が各地域にあって、いつでも・いつまでも預けられるし、親子で連泊しても良い、となれば

親や子にかかるストレスは皆無に近くなり、子どもの可能性を最大に引き出した育児が可能になる。

 

~~

子ども時代には、その時期に十分体験しなければならないことが、遺伝子に組み込まれた状態で存在するので、

大人社会の常識を教育するのはそれらを十分にやり終えてからでも良いはずだ、と私は考えている。

よって子育てランドは、子ども時代に必要な経験を十分に行い、個性に従った神経発達を十分にうながすための、子どものための王国である。

「本能的な発達を最重視すべき時期」が何歳までなのか、についてはこの先、子育てを続けていく中で感じ取れるのではないかと予想している。

20年前の子育ての時も、「あれ?なんだか、状態が変わったんだな」と感じた段階が、何度かあったので、

成長と神経発達を続けながらも、個人で集中してそこを発達させたい段階から、脳的に社会性を重視してくる段階というのが、おそらく有るように感じている。

そこに個人差があるならそれにも対応できるようにするのが良いだろう。

まとめ

前回の記事に書いたのが、

私がよく「教育システム改革」と言っている事の、主な内容で、

 

 

この教育システム改革によって、個々の性質を阻害せず伸ばして成長した子どもたちが、それぞれの得意分野で協力しあって社会を回す「適材適所の世界」を作ると、人類全体の可能性が飛躍的に伸びる、と私は考えているわけだけれど、

 

そのためにはさらに、「経済システム改革」が必要だと考えている。

つまり「賃金」が重要アイテムである現行システム下では、その賃金自体に、職業で金額の差がありすぎると、

 

せっかく個々の素質を伸ばしても、「自分には向いていないが賃金の高い職種」に就こうとする流れが終わらないので、なかなか社会が適材適所にならない。

 

経済システムには他にも問題点がいくつかあるけれど、とりあえずこの点をまず改善すれば、

考えるべき場所に考えられる人材が就き、実行が重要な場に実行力のある人材が就くなど、社会全体が適材適所になりやすくなるので、

おのずと、他の問題点にも気付いたり・解決したりする力が、現在よりも、社会的に上がっていくだろうと考えている。

 

 

こうして始まっていく適材適所の社会が、

かつて縄文時代には普通に行われていた、「平等、かつそれぞれの得意分野で協力しあい・地球とも調和が取れているサステナブル社会」を、

現代の増殖した人類で再現し、

 

それはさらに、ただ単に「過去を再現する」だけではなく、

 

かつての人類には避けようがなかった「宇宙や地球規模の天災」や「近隣宇宙開拓」等にも、

適材適所の協力で、進歩したテクノロジーを適切に使いこなすことにより、的確に対処できるという、

より進化した適材適所文明を、構築することにつながるだろう。

 

と予想しているのが、

私の考えている内容の、だいたいの全体像である。

 

すべてをきっちりこの通りに進められないとしても、だいたいこのような方向に進んでいけば、地球と調和をとりながら人類も繁栄を維持できる状況に、なっていくと私は思っている。

 

(やることが色々あって複雑なように感じるが、ポイントは「多様性を認め合い、すべてにとってwinwinになるように考えていく」、これが、人間社会の改善にも地球全体の改善にも、おそらく宇宙全体の調和にも、共通して言える法則だろうと思う。)

 

~~

多様性の話題が出たのでついでに追記しようと思うが、

私は息子には格闘系の進路に進んでほしくないと個人的には思っているけれど、それは私が、「愛する存在が痛めつけられるのを正視できないから」であって、格闘技そのものを否定しているわけではない。また、息子が本当にそちらに進みたいと言った場合にも、止めるつもりはない。

戦いを好む性質を持つ人にとって、社会への害を最小限に、比較的自由に闘える場やそれを見る場があることは、多様性の容認やwinwinの観点からも理にかなったものだと思うので、格闘技の存在は大いに意義があると思う。

ただし先日書いたように、「現行システム下で能力を発揮して成功できる人々」の枠に、格闘技系も入るので、

自己表現で満足して終わらず、

「社会的弱者にならざるを得ない人々をどう平等に浮上させるか」に尽力できれば、不要な害を避けやすいし、その行動が、社会を未来につなげる歯車になる、

というのが、その他の成功職種と同様、現行システム下では意識的に努力せねばならない部分であろう、と思う。

前回のまとめ、からの続き

前回のまとめ

『自分の自然な欲求に従って、なるべく自分の好きなようにいろいろできる教育環境を模索していくと、

子どもたちの、十分な神経発達を促し、それぞれがもつ能力をうまく発達させることにつながり、

それは人類全体を改善・飛躍させることにつながると私は思っている。』

これを社会的にどう実践していくか、について、今回書いていく。

 

~~

この「欲求に従って自由にいろいろできる教育環境の模索」は、個々人で行える範囲に限界があるのが現状で、

(現に我が家でも、「どれだけ運動神経が良くても、幼稚園に入ったら安全面を考えて制止されます」と、保健所で「暗に発達させないことを求める指導」をされるのが現実である。また、苦手な「全員でやるダンス」などについては、「幼稚園で普通に過ごせるように」それをできるようになりましょう、という指導がなされる。)

こうした、頭打ち現象が起きないように、

 

社会全体で、「社会的な枠組みとして」個性に対応する保育・教育を進めていくことは、やはり不可欠になってくる。

 

~~

少し前に、国連から、日本の障害児教育に改善を求める通達があり、このブログでも話題にした。

その時に書いた内容が、今回の記事に共通する内容である。

 

 

 

国連の要求は、「障害児」のくくりで隔離教育をせず一般と同様に学べるようにしましょう、といった内容で、

 

これは、国連が現在日本で行われている「特別支援教育」を悪い方向に誤解しているから、そういう要求をしてくるのだ、という意見もあって、

見る角度によってはそれも確かにそうなのだが

(日本の特別支援教育は、今現在の「一般教育システム」では学びづらい性質を持つ人たちを、より個別対応に近い環境で、個人のペースで学びを進められる場所になっているので、「現行システム下」では、この特別支援という「隔離」が、安全な学び場として、ある程度有効に機能しているから。

「ある程度」と書いたのは、

差別や偏見などの、「国連が考える「隔離」に近い意識」を持つ人々も一定数、社会に存在するので、

「差別もされているし、一方、守られた環境で安心して学べる場でもある」のが現実だから。)

 

このように「現行システム下の日本」では、ある程度効力を発揮しているこの隔離教育だけれども、

本来(≒未来)は、こうした「特別支援」に区分けされている人たちも「違う特徴を持つ同等の仲間」として互いに補い合い、協力し合う関係になるので、

いま「一般」とされる人々と同等の立場で学びや生活をできるように、社会を改善することは、やはり必要な変化だと私は考えている。

 

(「資本主義的な生産性」を基準にした価値判断だと、「同等になるなんて無理な話だ」と思うかもしれないが、

この「資本主義的価値観」自体が、地球全体とは相容れない「人間独自の考え方」で、人間の増殖と共にその弊害が大きくなってくるので、

人類が、繁栄と存続の両方を考えるなら、必然的にこの価値観も変化させていかねばならず、

その結果新しく常識となってくる価値観は、生産性だけに注視しない・もっと多様な価値が平等に認識される社会になるので、

今まで水面下に沈んでいた様々な価値観が、同じラインで輝くようになり、

その社会では、今まで無価値とされてきた特徴を持つ人々とも、互いの得意分野で対等に協力し合うことが、必然かつ当たり前になる。)

 

 

そうした未来を考えると、

いまの時点で、個性対応できる保育・教育を社会的に模索していくことは、

・国連の要求に対処するという目前の問題解決でもあるし、

・「可能性ある明るい未来」に向けた、建設的な取り組みでもあるし、

・人類が、繁栄を維持したまま存続したいと考える場合は、この取り組みが、避けることができない不可欠の課題にもなる。

~~

 

様々な個性がある状態で、どう学問や日常生活を行えば良いのかは、

「窓ぎわのトットちゃん」に出てくる「トモエ学園」のように、

過去、現実に行われた良いモデルケースが、参考の一つになると思う。

 

 

 

~~

未来にむけて個性対応できる保育・教育を模索していく一方で、

 

今現在、すでに現行システム下でも、個性を花開かせ・活躍できる立場にある人々が、どうするか、についても書いていく。

 

 

何度か書いてきたが、

現行システムは、本来あるべき状態に対してかなり片寄った枠組みで「良い悪い」・「高等下等」などが色分けされているので、

本来は同じラインの、それぞれ違う能力を持つ者として協力し合うべき人々が、

数多く、システム上「社会的弱者」にならざるを得ない状況になっている。

(これについて、「本人の努力が足りない」等の、「社会に適応しない」個人の問題として話されるのが、現行システム下でよく起きる状況だと思うが、

価値観やシステムの中に自分の能力で貢献できる領域が無く、得意とはいえない方面に努力することを要求される社会において、

それがうまくできず、その社会システムでの弱者になることは、個人の範囲を超えた問題が根底にあるので、

その現象を、個人の努力不足を理由にして糾弾することは、基準がいろいろズレているように私には思える。

そもそもスタートから、自分の持ち得た特徴が「現行社会システム」の片寄りの、有利なほうに合致するかどうかで、生きるのに有利な人・不利な人がいて、

さらにそのシステムそのものが、人類と地球全体にとって最善のものでも無い。)

 

 

こうした片寄った状況で、自分が自己表現でき、かつ現行システム下での「成功」ができる事は、

やむを得ない理由でそうならない立場の人々から、素直な羨望や賞賛をもらえる一方で、やはり恨み・妬みの矛先になることもある。

道徳を説いているのではなく状況的な事実だ。

 

表立って活躍できるのは、現在の社会システム的に自分の能力が有利な範囲にあったこと、それから

数ある役割の中で、自分の役割が、

大勢に見てもらうとか、何らかの影響を広範囲に与えるなどの、どちらかというと表立った方法で役立つ担当だからなのだ、と理解して、

その役割を果たしつつも、

自分を表現して満足する、で終わらずに

「現行システムで社会的に不利な立場にならざるを得ない人々」が、本来の平等に協力し合う状態に浮上するために、いま何ができるか、自分なりにできる手助けを考えて、意識的に行うことで、

 

個人的に自分自身が受ける害を回避しやすくなるし、

人間社会の「文明の進化に伴う退化」を食い止め、「本当の進化と未来」につなげるための、歯車にもなれる。

神経発達について

二つ前の記事に、

『本能的行動を無視した常識の強制、による主な弊害は、神経発達の阻害ではないかと考えている』と書いたのだが、それについて、もう少し全体像を書こうと思う。

 

~~

以前から私は、「人間にはタイプ別がある」と言っていて、十字でざっくり4タイプに分けて、それぞれを仮にA・B・C・Dと呼んでいた。

 

 

今は、

これらのタイプは、ハッキリ十字に区分けできるというよりも、

「なんとなく十字に分類できる」けれど、その中でもっとグラデーションまたはマーブル模様のように、得意とする分野が、それぞれ微妙に違い、違う能力に秀でていて、

それは、生まれ持った資質プラス、生育環境で行われた神経発達の状態によって、作られているのだろう、と考えている。

 

 

~~

例えば、言語によるコミュニケーション能力にフォーカスすると、

 

幼児の成長段階として、

まず最初に「見たものを真似して表現する」段階があるのだが

以前「A」と呼んだタイプの言語コミュニケーションもこの様式になっている。

私の身近で言うと、夫や義父がそのタイプで、身近な相手の話し方・リアクション・話す内容などを真似て(真似るというよりもコピーする、のほうが、表現として近いように感じる)、コピーして自分も話す、という手法をとる。意思でやっているというより自然にそうなってしまう・そうするしかないといった印象をうける、なぜなら相手が敵意で話した表現をもそのままコピーして返すので敵意で接してきた相手との関係修復を自力で行えず何十年もそのまま過ごすから)

つまりこのタイプは何らかの要因で、言語コミュニケーションに関して、その発達時期に、自分で試行錯誤する機会が大幅に少なくなり、神経発達がこの段階で止まったのではないかと私は思っているのである。

 

 

~~

この分野に関して言えば、

「コピー」という表現がぴったりのタイプもいるし、それとは微妙に違う「合わせる」になるタイプもあるし、その中には「合わせる」に徹するタイプもいれば「合わせることもあるし場合によっては合わせないタイプ」などもあり、こうした違いを数々見ているうちに、神経発達状況の違いが表面化しているのだと感じるようになった。

 

~~

こうした神経発達、

私に関して言えば、ブロック遊びやゲーム機器・運動遊びなどはほぼ行っていなかったので、いま息子とそれらの遊びをやろうとするとき、私の遊びの発想がとても稚拙である。

考えようとしても、たいしたことを思いつけないので、感覚的には、「その分野に関して豊かに発想するための情報回路がつながっていない感覚」、神経発達が未熟な感覚である。

こうした自分の感覚からも、なにかを出来る・出来ないは、先天的な要因にプラスして、神経の発達時期にその分野を経験し試行錯誤したかどうかがかなり影響しているように思った。

 

こうして書いてみると、

たくさん経験し試行錯誤の機会に恵まれた分野の神経が発達しやすいという、ごく当たり前の話でもあるのだが、

「どのように感じるか」とか「どう話すか」などの、一見神経発達とは関係ないような印象の、性格的なことも、こうした神経発達の長短が影響し、表面的な人格形成につながるように私は感じている。

 

~~

先天的に、「この方向には、そんなに発達しない」というのがある程度あって

(例えば、骨格や筋肉がそんなに運動にはむいていない、とか)

そこにプラスして、生育環境での、経験や自発的な試行錯誤などで神経の発達状況が変わり、表面的な特徴を形成するのだろうと思っている。

 

 

 

~~

前述の義父についてだが、

私が出会った当初は、義母(つまり義父の妻)を完全コピーした状態で私と会話していた。

義母は、ある時期の仲違いをきっかけに、それ以来、敵意を持って義父とコミュニケーションしているので、それをコピーした義父は義母からすると「常にムカつく会話をしてくる(もともとは義母が義父をムカつかせようと思って放った攻撃がそのまま返っている状態)をしてくる人」になるので二人は当然、上手くいっておらず、

また、義母の攻撃的な会話をコピーした状態で私に話しかける義父を私もやはり、好きになれず最初は拒絶した。

その後義父は、その反省を活かし、

良い関係を維持している「私と夫のコミュニケーション」を学びコピーする努力を始めた。方法は、私たちが義実家に滞在している間の、会話の盗聴である。

努力は実を結びつつあり、義父と私たち夫婦の関係性は改善してきた。

この成功をもとに義父は、今度は

私と夫のコミュニケーションをコピーしたものを、義母にも使用する試みを始めている。

義父は当然、私たち夫婦よりも義母と過ごす時間のほうが長いので、コピータイプの義父にとって、理想モデルが居ない状態で目の前の義母に理想を行うことはなかなか難しいから、成果を得るには時間がかかるかもしれないが、以前のまま義母をコピーし続けるよりは関係改善の希望がみえてくるだろう、と私は思っている。

学びの方法に盗聴を用いたというのが、

義父は意外と、自分自身の特徴をよく分かっているのだなと驚いたし、常識に逆らってでもそれをやろうと思ったあたりに、今回の自己改善への本気度を感じた。

プライバシーの面からは否定される盗聴だが、義父のようなコピータイプの人にとって、自分を改善しようと思ったら、良いと思える見本をひたすら見て学ぶしかないので、同居するか・こっそり見たり聞いたりして学ぶかくらいしか、方法が無い。しかも同居というのは、対面のコミュニケーションを伴うので、自分の性質について相手の理解が無い状況だと、結局また、義母と陥ったような敵対関係になってしまい、うまく学べない可能性が、多分にある。

私は初期に「話し方教室」を勧めたのだが、そういう場で学ぶ「型どおりの会話」を実践で応用して使うのはコピータイプの人には難しいかもしれない、と、勧めた私自身も思ったがやはり義父もその道を選ばなかった。こうした現状を思うと、盗聴というのが、学びの方法としてクローズアップされるのは、仕方がない事のように思う。コピータイプの特徴が社会的に理解されれば改善方法の道も、もっと広がるかもしれないが。

実は、義父だけではなく義母もまた、コピータイプに近い性質を持っているのだが、義母も私たちとのコミュニケーションを重ねるにつれ自己改善を意識し出した。けれど、盗聴という手段には出ていない。

そして盗聴をしていない義母と、盗聴をしている義父では、義父のほうが進みが格段に速いのが現実だ。(見本の会話パターンを見る頻度の違いに加えて、義父の場合は自分の特徴と改善方法をあらかじめ自分で理解していた、という差もある。)

物事には、見る角度により良い面悪い面が両方あるというのがここにも言える、と私は思っている。

 

~~

 

総合して、

 

冒頭で書いた、「神経発達の阻害が起きやすい」現状が、今現在の人間社会なのだけれど、

自分の自然な欲求に従って、なるべく自分の好きなようにいろいろできる教育環境を模索していくと、

子どもたちの、十分な神経発達を促し、それぞれがもつ能力をうまく発達させることにつながり、

それは人類全体を改善・飛躍させることにつながると私は思っている。

 

 

~~

 

やや話は変わるが、

幼児期の記憶はだいたい3歳頃からの記憶が、大人になっても残っているけれど、

それ以前の記憶も、脳のどこかの領域に保存されていて、

主に子育てに携わる時、その記憶領域にアクセスして、やり方を引き出しているのではないかな、と私は感じている。

自分では全く、親にされたことを覚えていない事でも、自動的に自分も子育てで同じことをやっている、というシチュエーションをたくさん経験したので、

生物が種を存続させるために、脳がそういうシステムになっているのかもしれないなと私は思っている。

発達支援の教室

改善前の、現状の、保育園または幼稚園に通うことになる現在は、

 

 

「保育者のイライラを刺激して虐待につながる」ことが少しでも減るように、

 

 

「みんなと同じこと「も」できるようになろうね」と伝えて、

(微妙な違いだが、「みんなと同じことをしなさい」と言うのと「同じことも出来るといいね」と言うのは、大切にしているポイントが異なるので、こだわりたかった)、

今日、保健所で勧められた「発達支援の教室」で、集団保育の体験学習を、始めることにした。

 

 

 

 

子ども側には、こうした、

主に「現状での、身の危険を避ける」理由で「みんなと同じこともやろうね」と伝え、無理のない範囲で努力をするけれど、

 

 

幼稚園・保育園側は、逆に「個々の性質に対応できる方向に進化していってほしい」というのが、(人類と地球の存続を前提にしての)私の希望です。

 

 

~~

「発達支援の教室」は、

地域の保健所で「集団行動や言語に発達の遅れがある」と判断されて勧められたものなのだが、

 

 

今までも言ってきたように、私の感覚だと、

現在言われている「障害」は、現在の価値観・社会構造内で、わかりやすく生活困難になる特徴が「障害」と規定されているものなので、

いまある社会に適応する目的で・上記の規定をもとに判断している保健所の指導では、当然、息子はそう判断されるだろうと理解している。

 

これは息子の発達状況や、持っている性質が、「現在の社会構造ではアウトローの位置に置かれる」という意味であって、

本来・(未来)は、

「得意分野で互いに助け合う世界」の、そのなかの一つである。

 

 

 

~~

 

勧められた教室は、

見学後でないとハッキリした事は言えないけれど、保育方針や考え方を読んだ限りでは、

 

私の理想とする「個々の性質を阻害せず伸ばす」教育を大事にしつつ、

現在の保育現場の集団行動にも入れるように練習させてあげる感じになっていて、

 

「個性が大切だけど、集団のときに悲しい思いをしないようにしてあげたい」という私の望みに合致した教育のように思える。

 

将来的には、

いま標準とされている保育園・幼稚園・(その後の教育)の側が、

こうした、アウトロー判定された子どもたちを受け入れている「特別教室」側の、「個性対応が可能な保育」に近づけていくことが、

(地球と人類存続を前提にすると)、望ましい変化だろうと私は思っています。

 

~~

 

そう思う理由は、

 

現在の集団教育は、人間社会に適応することを主目的にしているけれど、

いまの人間社会は、地球全体と上手くやっていくことを前提には作られていないと私は思うので、

(人間にとって、地球全体がまだまだ果てしない広さで、それについて何も分からなかった頃や・それを考えなくてもなんとかなっていた頃の、常識やシステムを、主要な位置づけでそのまま使っている部分があり、その影響が、人類の増殖に伴って大規模になっているから。その主なものは経済システムと教育システム)、

その社会構造にうまく適応することを「標準」にして、それ以外の要素を弱者の位置づけにし・能力が社会に反映されにくい状態にしてしまうと、

おのずと「地球全体と上手くやっていくことが難しい」流れが、継続すると私は考えているからです。)

 

 

~~

保健所で発達支援の指導を受けた今日、

我が家では「やっぱり、ちゃんとさせなきゃ社会に受け入れてもらえないのだ」という不安の揺り戻しが起きて、親子3人、状態が不安定になってしまった。

 

 

やりたくないことをやらされるのは嫌だと意思表示したい息子は、わざと親を困らせる行動を連発するので、私も疲れたが夫はさらに、怒りのガマンの限界になっているのがひしひしと感じられ、

危険を感じた私は息子に、「大人をわざと怒らせてはダメだ、あなたは体が小さいのだから、大人が怒ったらどうなってしまうかわからない、死んでしまう子だっているのだから、大人をわざと怒らせてはダメ」と言い聞かせたのだが、

 

 

その後、「では、嫌なことをやらされる子どもはどう伝えればその気持ちが大人に受け入れてもらえるのだろう」という疑問が頭から離れなくなった。

 

 

自分の希望する選択肢が与えられず、それが嫌で反抗したら身の危険がある、(だから集団行動を練習しておかねばならないし、反抗しないように言い聞かせねばならない、というのも含めて)、不自然に感じた。

 

 

(集団行動を練習し、反抗しないように言い聞かせ、今あるシステムに適応させればそれで丸くおさまる、

一見そのように思えるとしても、

そうやって適応させたそのシステム自体が、地球全体とは上手くやっていくのが難しいシステムで、また、人間社会をうまくおさめるシステムとも言い難いので、様々な問題が起き続け、結局丸くおさまらない。)

 

 

やはり、それぞれの性質に合った自由選択をできるように考えていくのが、人間社会の構造としても自然で、地球全体ともうまくやれる形ではないか。とあらためて思った。

 

 

~~

 

発達支援の件、

保健所の空気から離れて一晩ゆっくり考えてみたら、

やはり「みんなと同じことが出来ないと幼稚園にいけないからなんとかしましょう」の考え方は、子どもを尊重していない、大人の価値観の押し付けだなと感じたので、

それについて保健所にお手紙を書いてみた。

「普通になりましょう」の意識で話されると親子ともどもストレスがかかる。「うちの子は、これではダメなのだ」と感じ、些細な行動にもイライラし、子どもがのびのび過ごせなくなる。

よって、

既存のシステムを善にして子どもを矯正する目的の会話ではなく、

子どもの個性をどうやったら潰さないか、の角度で、

「活発すぎるということなら、幼稚園などの画一保育以外でも選択肢があるよ、いろいろ試して、子どもが過ごしやすい環境を選ぶと良いかもしれない」等の、

子どもの性質を尊重したアドバイスをしてほしい、といった内容。

そして、私自身も、そうした意識で発達支援教室を利用するつもりだ、という内容。

前回の記事について、全体像をかくと、

以前から私が、

人間について、それぞれが持つ得意分野により、ある程度タイプ分けしていたものを、

 

今回は「視野の広さ」の視点からみて、ざっくり分類し、

それぞれに適した配置を具体的に書いた、ようなことで、

人類の社会状況から地球全体までを含めた大規模改善に、最も効果的な方法の一つだと私が考える、「教育システム」と「経済システム」の改革が、まだ行われていない現状でも、いま取り組もうとしても取り組めるような工夫も付け加えた。

 

~~

二つの視野について、

現行の「立場の上下」の影響で、

「状況判断視野のほうが能力的に上」のイメージで受け取られそうだが、そうではない。

状況判断視野に優れたタイプが全体判断をすることで、片寄りの少ない・バランスの良い発展ができたり、あらかじめリスクを最小限にできる等の特徴があるが

いろいろ見えるがゆえに進度がゆっくりになる特徴もあり、

それに対して現実的視野に優れたタイプは、広範囲に考えない特徴が、的を絞って突き進む利点につながるので、ピンポイントの目的達成の、速度が早い。

よってそれぞれの特徴を活かして、

全体判断により、いま早急に突き進めるべき課題を決めたら、現実的視野タイプに任せて、比較的早い速度で、ある程度の目的達成を果たす、

そうしたら再び全体判断に戻り、

あえて的を絞って突き進んだことで起きる、別の部分への悪影響・起きかけている害などの対策を開始する、という感じで

それぞれの良さが、良い状態で活かせるように協力して物事を進める、パートナー関係と見るのが、正確だと思う。

 

(現実的視野タイプが全体判断を担うと、最初からピンポイントに狭められた範囲のなかで、強烈に指示を出す状況になりやすいので、何かが勢いよく進む一方で、見えていない範囲に起きる害も猛スピードで進んでしまうため、全体判断は、状況判断視野に長けたタイプが担うのが安心だろうと私は思っている。だが状況に余裕がある場合などは、あえて「現実的視野」にリードを任せて、安定安心よりもスリルやエンターテイメントを楽しむといった応用もできる。

しかし今現在のように、ストッパー係の状況判断視野タイプが社会的に機能していない状態でスリルとエンターテイメントに突き進んでいる状況は楽しさよりも本当の危機が迫ってしまうので安全に楽しみを続けるためにもまずは対等な協力関係をつくることが先決だ。)

 

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この「視野の広さ」で職場改善を行う案は、あくまでも「今現在」の、

人材採用状況や、役職決定方法で起きている社会的な害に対して、

今現在の社会環境下で、良い効果が出ると期待できる対策であって、

仮に、これが広く行われるようになった段階では、再びその時点の状況において、その状況に合った新たな微調整が必要になる。

状況に合わせた微調整をせずに同じことをやり続けると、たとえばこの「視野の能力」が先天的か後天的かはまだはっきり分かっていないけれど、それを度外視してどちらかの視野の広さを必ず身につけなければならない等の無理な矯正が横行し出したり、

視野の能力と無関係な能力を持つ者は非生産的に見られ社会的弱者になってしまう等、改善よりも弊害が目立ってくる。

状況を改善する方法というのはその時々の状況に合わせて常に、新たに考え直す必要があると私は考える。

 

これを思うと、

宗教における「原理主義」(最初に定められたものが最も正しいとする考え)は、

これは「人類の状況改善を目的とした場合」は、「その方法としては適しておらず」、

「自分はこの考えが好きだからこのように生きたい」という「多様性の一つとして互いに認め合う」ものだと考えるほうが適切なように私は思う。

 

例えば

エスキリストが離婚を禁じたのは当時社会的弱者だった女性の立場を守るためだったという話を何かで読んだが、

そうだとするとそれについて現在考えるべきなのは、社会的弱者を守るためにどうするかの視点であって、やみくもに離婚を禁じることが果たしてイエスキリストの意思を継いだ行動なのかと考えると必ずしもそうとは言えなくなってくる、ということであり、

あくまでも、対策が考えられた当時の状況における、「何を」改善するために、その対策が用いられたのか、を見ないと、同じことをしても当時と同様の救いを現在社会にもたらすことはできない。

「離婚をしないという考えが好きだから自分はそのように生きたい」、という多様性の一つとしてならば、そうすることはそれぞれの自由だと思うが、社会状況改善のために広く強制するとなると、

最初にそう定められたから今も正しい、とは言い切れないので、「目的を達成する方法」としては、現在状況に合った再考が必要なのだろうと思う。

キリストについて知識豊富なわけでもないのに例題に使わせてもらい申し訳ない。決して宗教批判ではなく、

このように、その時々の状況に合わせて、とるべき対策は刻々変化するものだと私は思っている、という事を言いたかった。

 

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そうなると、将来的に重要なのは

「今現在私が考えつく案をひたすらやり続けること」ではなく、

「その時々の状況をみて適切な対策を考えられる人間を育てる」事になってくる。

どのようにすればそのような人間が育ちやすいのかと考えると、今までも言ってきた、「個々の能力を阻害せずに伸ばす教育システム」にすることが必要なわけだが

最近問題になっている幼児保育の段階からそれがあてはまるのではないかと私は思っている。

つまり、幼児に大人の生活習慣を教え込もうとせず、幼児期の本能的な欲求のまま自然に振る舞える環境を、出来る限り作ってあげることが、

人間の能力発達を最大限に広げる意味でも、また、保育者の負担増からくる虐待を、減らす意味でも、いま必要な対策の一つではないかなと私は感じている。

 

実際自分で子育てしていても、

大人の一般常識に沿ったマナーなどを一応子どもに教えるのだが、幼児の本能はそうした行動を望んでいないので、子どもはどうしても本能に従った行動を取ろうとする。これは能力発達の意味では大切なことで、この時期にその動きをすることで何らかの能力を獲得していくという、成長の段階を踏んでいる状態なので、それを抑えて一般常識を行わせることは、発達上、必ずしも善とは言い切れない。

 

加えて、本能の欲求は強いので、子どもに一度二度、常識を教えても、それに逆らい何度でも本能的行動を行おうとする。

これは能力発達としては正しい行為なのだが一般常識的には「悪いこと」だとされ、保育を担当する大人が矯正しなければならなくなる。

だが本能の矯正はそう簡単にいくものではなく、しかしやらねばならないという事になると、どうにかしてやらせるために虐待まがいの指導がだんだん増えていくという事だと、私は自分の育児から感じた。

 

私自身としては、 

一応常識は教えるが、それをやることを徹底しすぎない・子どものやりたいようにやらせつつ一応世間の常識も教える、みたいなやり方をしている。

なぜなら、これ以上きちんとさせようと思ったら虐待まがいのことをやらねばならなくなるし、今度はその「強制的な矯正」による別の害が、子どもの心身に起きてくるように感じるからだ。

本能的行動を無視した常識の強制、による主な弊害は、神経発達の阻害ではないかと私は考えている。樹状に発達するシナプスが、きれいにそうならないイメージである。

いろいろなことを考える力が人類全体で弱くなってきているのは、先天的な向き不向きもある程度あるかもしれないが、

後天的に原因があるとすると、この幼児期の、本能の阻害も、影響しているのではないかと感じ始めている。

 

 

虐待保育問題について、

人員が足りない・給与が十分ではない等の、保育士の待遇の問題、いま挙がってきているそれらに加えて、私が育児で感じた上記の問題も、ぜひ考えてみてもらいたいと思う。

 

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余談だが、

クリスマスは宅配荷物が多いのに、使いもしない荷物をそこに時間指定で入れ込みちゃんと届けろと注文をつけるなんて迷惑な話だ、といった会話を今日したのだが

よく考えたら私自身も、昨日なにも考えず注文した本の到着予定日が偶然25日で、混雑時期の荷物の遅延に、自分自身も加担していたのだった。

必ず届けろ等の注文をつけていない点は多少の救いではあったが「自分だって同じことをやってるのに他人には怒る」現象をまたやってしまった。他者を責めるのは自分も同時にブーメラン的な危険を背負うので発言には熟慮が必要だなと改めて思う。

人間界に起きる現象の、仕組みを、ある程度は分かっているつもりの自分、それゆえ他人に意見するのがごくたまにである自分でも気を抜くとすぐにこうなるので、

何も気にせず誰かの何かを指摘することは常に諸刃の剣を手にしているようなものだから日頃からそうした職業に就いている方々はどうぞ用心してほしい。

 

 

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さらに余談だが

現在の治安的に、皇族の警護はいらないのではないかとの意見について、

政治的な、税金の使い道が、弱者救済に上手く機能しない場合は、不満の矛先が皇族に向き危害につながることが無いとは言い切れないのではないかと個人的には思った。安倍さんの殺害が起きた心理的背景を踏まえての考えだ。

 

どうするのが良いまたは悪いの判断は、個人の信念や見る角度により変わるので説明が長くなり、今は時間が無いのでそこに言及できないが、今ある状況に対して起こりうる出来事ではあるという事だ。税金管理部門の方々、弱者に厳しい態度を取りがちだと、それが災いして、日頃から守りたいと思っている大事な存在を危険にさらしてしまうから気をつけて。

 

 

 

最後に、

全体を通して、良い・悪いは「地球と人類の存続」を基準にして判断している。

 

また、私が書いている内容は何かの暗喩ではなく書いたままの内容なので、

「宗教や子育ての話題にカモフラージュしているがこれは実は自分に向けた何かの意見だ」とは考えず、書いてある内容を、書いてあるそのままの意味で読んでほしい。