私の考える「視野の広さ」には二種類ある

ひとつは、現実的な視野の広さ

(「階段があそこにある」とか「向こうから車が来る」など

現実に起きていることをたくさんキャッチできる)

 

 

もうひとつは、

「状況判断の材料」を調達する範囲、の広さ

(例えばイジメが起きたとして、

①いじめた子が悪い

②いじめた子を虐待している親が悪い

③親の精神を追い詰めた社会環境の問題を改善するべき、

など、「状況判断の材料を調達する範囲の広さ」が広がると、何を悪として何に怒りを抱くかなどの、考え方が段階的に変化する)

 

 

視野の広さには、いまのところ、この二つがあると思っていて、

二つのうち、どちらかというと「現実的な視野」のほうが発達しているタイプと

逆に、どちらかというと「状況判断の視野」のほうが発達しているタイプがいて、

 

 

 

「全体管理をする立場」には、後者のタイプ

「後者の判断を受けて実際に動く」のが前者のタイプ、で配置すると

とくに組織内などで、

いろいろが滑らかに進行する、ように思う。

 

 

 

(現在は、

「全体管理をする者が上」で、「実際に動く者が下」の常識になっているので

便宜上「上に立つ者は~」等の言い方を私もするが

本来そこに上下はなく、互いの得意分野で協力しあう対等な立場。)

 

現在は、「上に立つ」ことが「金銭的に有利」なシステムなので、能力に合った配置が難しい。よって

今までと役割が逆転しても金銭的に不利にならない、とか

単純に役割を入れ替えるのではなく、新しい名称の新しい立場を作って、対外的には分からないが事実上は役割交代している、などの工夫、

 

また、受験や就職のシステム上、「状況判断視野」の人材が社会に不足しているので、

採用時に、状況をどれだけ広く見れるかを測る新しい枠を設け、不足している人材を職場に増やす

等の工夫をすると、能力に合った再配置もやりやすくなるだろう、と個人的には思っている。)

 

 

いきなり叱るのではなく「なんでこうなったのか?」を聞いてみる、について

「なんでこうなったのか?」の使い方は、

 

・理由を聞いて理解してあげよう

・一緒に解決策を考えよう

 

などの、相手を思いやる気持ちで使うと、その後の展開に良い循環を起こしやすい。と私は思っている。

 

「なんでこうなったの」を、相手を責める気持ちで使うと、あまり良い結果を招かないように思う。

増え続ける不登校児

不登校の子どもが変なのではなく「学校システムのほうがおかしい」ことに、もっと多くの人に気付いてほしい。

 

 

黒柳徹子さんが書いた「窓ぎわのトットちゃん」に出てくる、徹子さんが通った「トモエ学園」のようなシステムが、学校という場所の、本来あるべき姿だと私は思う。

 

 

最近、国連から日本政府に宛てて、「障害児を、特別支援と銘打った隔離教育に押し込むのをやめて、普通学校に入学できるよう学校側のシステムを作り直すように」と通達が来た、とニュースで読んだ。

 

この指令を実行するには、学校のシステムを、トモエ学園的な個性尊重路線(ひとりひとりがそれぞれのぺースで学べる学校)に変えなければ対応しきれないと思うので、

 

この国連からの意見が、日本の学校教育を上記のように変化させる良いきっかけになって欲しいと心から願っています。

「怒るのを我慢している」とは、本当はなにか。

社会的に、

「子どもを叱る」とは「自分の怒り感情をそのままぶつけること」だ、という「間違い」が、正しい𠮟り方として広まっているように感じる。

 

 

怒鳴ったり叩いたりして自分のイライラした感情をぶつけるのは、叱っているのではなく「八つ当たり」なので

 

それを我慢しているというのは、つまり「子どもに八つ当たりをしないよう自制できている」ということだ。

 

よって、「怒りたいが我慢している」と思うより「八つ当たりしたいが我慢している」と思っておくほうが

 

「怒るべきところを我慢してやってるんだ」という恩着せがましい勘違いをしにくいので、良いと思う。

恩着せがましい勘違いが重なると、子どもへのイライラが止まらなくなる。

 

 

 

正しい𠮟り方は、子どもを導くことを目的とするので、

「分かるように教えてあげるにはどうするか」を考えて話すことだと思っている。

 

 

 

怒鳴ったり叩いたりするほうが効果がある、と感じるかもしれないがそれは恐怖で支配しているからなので、

やられた側は「この災難を逃れたいから、とりあえずいわれたとおりにする」という思考回路になっていて、

 

子ども自身の理解や、考える力は育っていない。

 

つまり「いますぐに自分の都合の良いように従わせたい」という目的を叶えるだけの方法なので、それは「しつけではない」と言える。

 

 

 

安倍さんの国葬

安倍さんの国葬は、

 

国葬」と位置づけしてしまうと自動的に税金が使われてしまうので、

そうせずに

立派な葬儀で送り出してあげたい人たちのポケットマネーで、

その人たちが満足する規模の葬儀を行うのが妥当だろう、と私は思う。

 

 

ロシアとウクライナの戦争で物価高が続いていて、一般家庭の家計がじわじわ影響を受けている今、

 

そういう微妙な、金欠イライラ状態において、1番心理的なしわ寄せがいくのが

家庭内で弱者の立場にある子どもたちなので、

 

 

親の金欠イライラが子どもたち相手に発散されないよう、

経済的な改善策をすぐに出さねばならない時なのに

そんな状況下で、

金額が莫大で国民からも反対が多い国葬を断行するなんて、

政治的には「あーあ」という感じである。政治家としての安倍さんも、いい迷惑だろう。

 

 

 

 

またそもそも論になってしまうが

貨幣が、社会生活を営むための重要アイテムなのならば、

すべての者が十分にそのアイテムを持てるように、配慮をすべきだろう。

 

人が持つ能力はそれぞれ違っていて、

その全てが協力しあって始めて社会が円滑に動くので、

 

生存競争で誰かが脱落するような状況では、全体協力がうまく為されないのである。

子どもの愛に比べたら、親の愛なんてたいしたものではない

「子どもは親に感謝すべきだ」なんて、子どもが自主的に言うならまだしも、

親の側が言うべき台詞ではないよなぁと思った。

 

子どもが親に注ぐ無償の愛に比べたら、

親が子どもに与える愛なんて自己満足の極みみたいなものだ。

 

と私は思っている。

 

 

 

まあそもそも、

生んだ親が育てる、というシステム自体に無理があるので、

「能力的に、片寄った接し方しか出来ないのに、その事実に気付かず『育ててやった』などと、まるで十分なことをしてやったかのような見当違いの大口を叩いてしまう」のも、このシステム上、仕方ないといえば仕方ない現象である。

 

本来の子育ては、縄文時代に行われていたと思われる、

「村単位の、適材適所による分担の子育て」である、と私は考えている。

 

 

 

虐待対策は行政と病院にも重要ポイントあり。

前回ざっくり説明した内容の詳細を、何からどうやって書こうかと考えているうちに、

虐待事件が次々起きているので先にそれを書くことにした。

 

 

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「子どもがその時期に食べたいものや、その時期にやりたいことは、遺伝子に組み込まれていて、本能として発現してくるので、なるべくやりたいようにやらせてあげましょう。」

 

 

という点を、子育てしている親たちが知らなすぎるので、

 

保健所や病院などの、行政的な指導の場は率先してそれを教えてあげてほしい。

 

 

「あれもこれも食べさせてください」「常識に合わせてきちんとしつけましょう」などの、大人の社会常識を基準にしたアドバイスでは、

 

脳の発達やそれに伴って現れる「科学的に当たり前である子どもの生態」をよく知らない親たちに、

「言われたとおりにできない」という過剰なイライラを与えるので、わざわざ虐待に導いているようなものだ。

 

 

子どもは本来、そんなふうに生活できるものではなく、「子どもの本能で行う行動」を十分にやることで、その時期に育つべき心身がきちんと成長する。

 

 

しかしそれを知らされていない親・知る機会がない親たちは「常識どおりにきちんとできない子どもが悪い」と思いこむから、それが虐待の心因の一つになっている。

 

 

 

行政・病院関係者の方々は御一考をお願いします。

 

 

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社会が、子どものそうした生態を受け入れていないという問題もあるので、

 

どういう場にいけば、子どもが無理なく過ごせるかをアドバイスするのも大切だと思う。

 

私が分かる範囲だと

室内ならモンテッソーリ

室外ならプレイリーダーが主催するプレイパーク

学校なら、窓ぎわのトットちゃんのトモエ学園、それに似た理念をもつ学校、

 

 

しかしモンテッソーリは授業料が高く、

トモエ学園はすでに存在しないので、(ぜひ復活させたい。)

プレイリーダーのいるプレイパークが一番現実的だろうか。

 

 

組織の情報網で探せば他にもいろいろ見つかると思うので、そうしたアドバイスをして、虐待にならないサポートをしてあげてほしい。

 

 

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あとは、少し大変だけれど、普通の公園で遊ぶときに、なるべく自由に遊べるように親が守ってあげるというやり方もある。

 

以前、ブランコの柵内でアリの巣か何かを見るのに夢中になっている子どもを、

周囲を気にしながらも、中断させずそのまま続けさせてあげたお母さんがいて「ああ、気持ちわかるよー、頑張れ」とすごく共感した。

また、

すべり台でオモチャの車を滑らせている子のお母さんも、ジャマにならないように周りを気にしながら、空いた瞬間にそっとやらせてあげていた。

 

私も、今は息子が水に興味津々なので、公園にいくと必ず水道で遊びたがるのだが、使う人のジャマにならないように気を配りながら、水道で遊ばせている。

 

大人の力量が問われるのでなかなか難しいが、このようにして子どもの自由を守る方法もある。

 

 

ルールを教えなきゃいけない、という意見が大半だと思うが

ルールも教えてあげつつ、「やりたい」の気持ちも尊重してあげるのだ。

(「絶対にダメ」なことと「ルールを教えてあげつつ、やりたいこともやらせてあげる」ことを、親が判別できる必要があるので、それが得意な人と不得意な人がいるのは仕方ない。こうした事も、適材適所の役割分担で集団子育てをすると、得意な人が的確に判断できる。)

出来る限りやらせてあげつつ他の人にも配慮する大人の姿をみて、子どもは尊重と気遣いを体得するだろう。

「ただ単にルールを押し付けてしまう」と、やはり、「ただ単にルールを押し付ける人間」になる。

いろいろ見ていると、そのように感じるのだ。

 

 

 

もう一つ、これもまた大人の力量が問われるやり方ではあるが、すぐできるものとして、

家のなかで、なるべく自由にさせてあげるやり方もある。

公園と同じく、ルールも教えてあげつつ、「やりたい」の気持ちを尊重する。

どうしても触らせてあげられない物は、「それを使ってどんな動作をしたいのか?」を考えて、代用可能なものを用意してあげる。

家が汚れる・壊れる・散らかるなどはある程度あきらめる。

その時期に興味があるものを繰り返し行うのが子どもに必要なことだから、

同じ散らかり、同じ片づけを何度もしなければいけなくなるが、それもある程度受け入れる。

このようにして子どもの自由を守るやり方もある。

 

これに関しては、住宅販売会社に「子どもが生きやすい家」を販売してほしいと要望を出したほうが親の負担が減ると思うのだが、

住宅販売会社に意見を出すには住所・氏名・生年月日・職業などを記入せねばならず、

つまり意見を出す=顧客としてロックオンになってしまうので、

純粋に「ご意見ご要望」を募集している会社を探したい。

 

 

・1階を、排水溝つきの体育館のような空間にして子ども用スペースとし、2階を居住スペース、子どもが成長したら1階を家族の好みにリフォームできる。

・建売住宅タウンには子どもが遊ぶ広場&室内遊戯施設を常設する。おまけみたいなものではなく、有料遊戯施設くらいの充実度で。個人的にはそのような案が魅力的だと思う。

子育て世代のマイホームといえばこんなかんじ、という常識が広がれば、こうした住宅や建売タウンの建設が増える。

何事にも向き不向き・得意不得意があり、それは子育ても同様なので「生んだ親が育てる」のは無理があるシステムなのだが、その状況下であっても虐待の数を減らせる手助けになると思う。